それから数か月、数枚のレコードしか出していないのに、その看板通りになった。タムラ・レコードTamla Recordsの3枚目のリリースはミシシッピ州出身のバレット・ストロングBarrett Strongという男で、姉妹3人と一緒にゴスペル・グループで歌っていて、ジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonの友人だった。
ある日ウィルソンがやって来て、ストロングがピアノを弾いて歌っているのを聞き、自分の友人がレコード会社を始めたのだが、その友人のために昔ヒット曲を書いた、と話した。そのすぐあと、ウィルソンはゴーディBerry Gordy, Jr.をストロングに引き合わせ、4月にストロングはタムラから、誰かの地下室で録音したシングル盤「レッツ・ロックLet’s Rock」、B面「ドゥ・ザ・ベリー・ベスト・ユー・キャンDo the Very Best You Can」を出した。
これは売れなかったが、ストロングはゴーディの編成力の高さに感銘を受け、地元のラジオ放送局で、自分の新会社はソングライター、ミュージシャン、演奏者を探しているという広告まで打った。「レッツ・ロックLet’s Rock」が発売された月に、タムラは別のローカル・シンガーであるチコ・レバレットChico Leverettの「ソリッド・センダーSolid Sender」をリリースしたが、流通をデトロイトに制限した。
6月に、ミラクルズ・ロニー・ホワイトMiracles Ronnie Whiteとビル・スモーキー・ロビンソンBill “Smokey “ Robinsonの「ロン・アンド・ビルRon&Bill」によるノベルティ・ソング「イットIt」が出た。
この曲はゴーディが、チェスの子会社であるアーゴArgoに貸し出したのに、たいしてうまく行かなかった。
次に出したのが、チコ・レバレットも所属していたボーカル・グループのサテントーンズthe Satintonesによる「ゴーイング・トゥ・ザ・ホップGoing to the Hop」だった。
B面は「モーター・シティMotor City」で、ゴーディが構想していた新レーベルの名称を考案できた人には誰でも100ドル提供するというのを、レバレットは覚えている。レバレットは、モーター・シティ・レコードMotor City Recordsを提案したが、ゴーディはお金を払わなかった。
ゴーディはおそらくその名前が嫌いだったのだろうが、100ドル持っていなかったのかもしれない。ゴーディは短期間で大量のレコードをプレスし、それを流通するために支払われたので、誰もが知っているお金は「カム・トゥ・ミーCome to Me」のためのお金だけで、それはおそらく分け前としてユナイテッド・アーティスツUnited Artistsに行ったのだ。
ゴーディはある日、ヒッツビルにあるピアノのところに座って、放課後に働いていた高校生の受け付け、ジャニー・ブラッドフォードがJanie Bradfordこう言っている。
「ゴーディは、リフを演奏し、私たちは立って描き続け、歌詞を入れ、メロディを手直しして、良いものが出来上がる。」「私たち」には、バレット・ストロングも含まれ、数名の白人高校生徒が、家から出る騒がしい音を聞きつけると、ベースやギターを抱えて、この場に入ってきた。「歩み寄って、セッションに参加できるかと尋ねた。」とストロングは後に思い出す。「二度とその連中を見ることは無かった。誰だったかもわからない。真新しいヒッツビル・スタディオHitsvill studioの中で、その連中はドラムのベニー・ベンジャミンBenny Benjamin、タンバリンはブライアン・ホランドBrian Holland、ピアノはストロングBarrett Strongと座り、演奏が終わってタムラの大ヒット曲が生まれた。
https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2592%25E3%2583%2583%25E3%2583%2584%25E3%2583%25B4%25E3%2582%25A3%25E3%2583%25ABUSA&psig=AOvVaw2KWBbE0osCRDC6ODQJ2Gwd&ust=1619586547865000&source=images&cd=vfe&ved=0CAIQjRxqFwoTCIiloprUnfACFQAAAAAdAAAAABAD
https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2592%25E3%2583%2583%25E3%2583%2584%25E3%2583%25B4%25E3%2582%25A3%25E3%2583%25ABUSA&psig=AOvVaw2KWBbE0osCRDC6ODQJ2Gwd&ust=1619586547865000&source=images&cd=vfe&ved=0CAIQjRxqFwoTCIiloprUnfACFQAAAAAdAAAAABAD
その連中は、分かっていることを書いて、と言い、ゴーディとブラッドフォード(ゴーディは共同の著作権表示を与えた。)は、その通りにした。「マネーMoney(That’s What I Want)」は8月に、すぐ大ヒットとなり、そんなわけで、全国で成功させるために、ゴーディはこのレコードを姉妹のチェス流通レーベルのアンナAnnaに、1960年初め使用許可を与えた。そして売れに売れ、お金が入ってきた。