レイ・チャールズRay Charlesは1958年、ほとんど最後までボーカリストして通した。
というのは、アーメット・アーティガンAhmet Ertegunの兄弟で、アトランティックの評判の良いジャズ部長、ネスヒNesuhiが、選ばれたプレーヤーと一緒にチャールズをスタディオに入れ、モダン・ジャズ・カルテットのビブラフォン演奏者ミルト・ジャクソンMilt Jacksonと、チャールズ自身のサックスフォン演奏者デイビッド・ファセド・ニューマンDavid Fathead Newmanと一緒に、素晴らしいインストルメンタル・アルバムを数枚録音した。
それからレイは1958ニューポート・ジャズ・フェスティバルthe 1958Newport Jazz Festivalの素晴らしい舞台へと向かい、これはアトランティックが録音して、この都市の後半にレイ・チャールズ・アット・ニューポートRay Charles at Newportとしてリリースした。
舞台の終わりに、レイレッツ・マーギー・ヘンドリックスRaelette Margie Hendrixが「(ナイト・タイム・イズ)ザ・ライト・タイム(Night Time Is)The Right Time」の間に一歩踏み出して「ベイ・ベイBay Bay」と何度も大声で歌った。
この結果、信じられないほどの緊張感が高まり、このアルバムの評価が今まで録音されたライブの舞台の中でも最高のものの一つであるというアルバムの評判を固めることとなった。チャールズは間を置かず、そのシングル盤をレコーディングし、それがポップとソウルのチャートを上がって、ポップ・アーティストとして復活の前兆となった。そして実際に戻ってきた。1959年2月18日、チャールズはバンドと一緒にアトランティック・レコーディング・スタディオAtlantic Recording Studiosに入り、再び歴史を作った。
レイは巡業中に使ったウルリッツァーWurlitzer電子ピアノを持っていて、ジャズファンは活気のない金属的な音をけなしたが、巡業中に作った曲に乗せて復活したことのもてなしを行った。この曲は多少なりともリズムを駆使し、歌詞は常套文句(「赤い服の女の子を見なよ」など)で、レイレッツthe Raelettesと一緒にコールアンドレスポンスの黒人霊歌をちりばめていた。
この曲は「ホワッド・アイ・セイWhat’d I Say」というタイトルで、5分以上になったが、聞いた人は誰もがヒットすると分かった。
そして、真ん中にうまくつなぐ場所があったので、アトランティックはあわてて45回転レコードのパート1、パート2にした。このセッションでレイがレコーディングしたのは、ファイブ・ロイヤルズthe “5” Royalesのローマン・ポーリングLowman Paulingによる「テル・ザ・トゥルースTell the Truth」だった。レイ・チャールズ、サム・クック、他に数名の手助けがあって、新しい種類の黒人ポピュラー音楽が生まれた。
5ロイヤルズthe “5” Royalsの手助けもあった。ファンであるか、運よく深夜のラジオ放送を聞くか、何とかライブを捕まえるかしない限り、この曲を知ることは無い。キング・レコードKing recordsは、この曲をつぶそうとしたのか?キング・レコードは無能なのか?資金が不足していたのか?たぶんその三つだろうと、今は思われる。ロイヤルズは1958年4月に「テル・ザ・トゥルースTell the Truth」のオリジナルをレコーディングし、しっかりしたボーカル作品だが売れ出すのが遅かった「ダブル・オア・ナッシングDouble or Nothing」のB面としてリリースした。
しかし、本当に失礼な行動は9月にあり、この時、ライブで演奏する最高の代表曲を、次の曲の、これもスローなゴスペル調の曲「ドント・レット・イット・ビー・イン・ベインDon’t Let It Be in Vain」のB面に追いやったのだ。
この曲の実際のタイトルが何だったかについては議論があるが、ロイヤルズはしばらくの間演奏して、時々20分以上に引き延ばし、ポーリンPaulingは自分のギターに熱狂した。そして、スティーブ・クロッパーSteve Cropperという名前のティーネージのギタリストが、メンフィスの故郷のショーでそれを見た後、家に戻ってベルトをジーンズから外し、自分のギター・ストラップを伸ばすために使って、ローマンの低くしたレス・ポール・ストラップLes Paul strapの真似をした。
この曲は、意味不明のタイトル「ザ・スラマー・ザ・スラムThe Slummer the Slum」という名前で発売されたが、それでも、ロイヤルズは「ザ・ストンペティ・ストンプthe stompety-stompと歌っているように聞こえ、前の言葉(「アイ・キャン・ドゥI can do」)と一緒に意味を成す。
それを買う人は全くいなかったし、レコードをかける人もいなかった。5ロイヤルズは1959年中、素晴らしいレコードをリリースし続けたが、1960年に契約が終了し、ロイヤルズとキング・レコードは別れ、両者は安どしたに違いない。