背景の中で変わるものもあったが同じものもあった。エルビスの入隊は、「ビル・パーソンスBill Parsons」という人の「オール・アメリカン・ボーイAll-American Boy」というレコードで皮肉られたが、この曲は、葉巻を吸う男の助けを借りて、自分の声とギターで大成功するものの、結局最後の詩で徴兵されるというものだった。
(「パーソンズParsons」は将来カントリー・スターとなるボビー・ベアBobby Bareであることが分かる。)ボーカル・グループもまだいて、新天地を切り開いていた。クレスツthe Crestsは白人、黒人の二人種のジョニー・マエストロJohnny Maestroが代表(ジョニー・マストランジェロJohnny Mastrangelo、the BelmontsのカルロCarloとの関係は不明)で、その「シックスティーン・キャンドルスSixteen Candlesは、イタリア系アメリカ人の鼻音性とボーカル・グループの魂との完璧な混合だった。
そしてフラミンゴスthe FlamingosはチェスChess recordsを離れ(離れたのは、チェスの確実な後継者で演奏もする、マーシャル・チェスMarshall Chessの13歳の成人式バル・ミツバーBar Mitzvahの後だった。
彼らはユダヤ人で、どっちみち黒人用のユダヤ教礼拝堂で出会った。)、最近ニューヨークに本拠を置いたジョージ・ゴールドナーGeorge GoldnerのレーベルであるエンドEnd recordsに向かい、初めてエコーをふんだんに使った名作「ラバーズ・ネバー・セイ・グッドバイLovers Never Say Good-Bye」をリリースした。
ほかに白人の2グループがチャート入りした。そして、ワシントン州オリンピア出身のフリートウッズthe Fleetwoodsは、テディ・ベアーズの静かで魅力的なサウンドを「カム・ソフトリー・トゥ・ミーCome Softly to Me」で磨きをかけた。
とても素敵な「ダム・ダム・ドゥビ・ダム・ダムというバックが、グレチェン・クリストファーGretchen Christopherのほとんど聞こえないリード・ボーカルをサポートした。
コースターズthe Coastersはリーバー・ストラーの力を借りて、「チャーリー・ブラウンCharlie Brown」の物語を語って社会秩序を乱し続けたが、このチャーリーは、ピーナッツPeanutsという漫画の中に丸い頭の子ではなく、ロッカー・ルームでタバコを吸い、国語の教師を「おじさんdaddy-o」と呼ぶ、クラスの危ない役立たずだった。
このレコードは、作家のティーネージャーに関する知識、キング・カーティスKing Curtisのサックス、ボビー・ナンBobby Nunnの再低音部(「フー・ミー?Who Me?」)そして流行の早回しボーカール(「イヤー・ユーYeah, You」)をフルに活用した。ロックンロール精神は、何はともあれ見え続けた。
しかし、ブルースでは世代交代が起こっていた。マディ・ウォーターズMuddy Watersとハウリン・ウォルフHowlin’Wolfはすでに最近のシングルがチャート入りしていたが、将来のために新曲を発売し、リトル・ウォルターLittle Walterは10月に発売予定だった。
シカゴのブルース演奏者の新世代は、サウス・サイドでなく、ウェスト・サイドの出身だった。情熱的な左利きのオーティス・ラッシュOtis Rushは「オール・ユア・ラブAll Your Love」がヒットし、マジック・サムMagic Sam、バディ・ガイBuddy Guy、ジュニア・ウェルズJunior Wellsはシカゴのクラブに若い人を大勢惹きつけた。
メンフィス・ブルースのタレントの新世代は、1957年にボビー・ブルー・ブランドBobby Blue Blandが「ファーザー・オン・アップ・ザ・ロードFurther On Up the Road」で炸裂し、次から次へと素晴らしいレコードを発売しツアーにも出かけた。
よくジュニア・パーカーJunior Parkerと一緒になったが、パーカーはドン・ロベーDon Robeyにサン・レコードSun Recordsから引き抜かれた後、ロベーのデューク・レーベルDuke labelと契約した。