その間、ラボックで、本物のクリケッツthe Cricketsはジェリー・アリソンJerry Allisonの家にいて話し合いをしていた。「僕と一緒にやりたければ電話をするだけでよい。」とバディは彼らに言ったが、ノーマン・ぺティNorman Pettyは彼らを冷遇し、バディと別れてから仕事ももらえていないしレコードも作っていなかった。
(非常に野心的なマリア・エレーナMaria Elenaがこのことと何か関係があるというのはあり得ないことではない。というのは、彼女はバディと一緒にリー・ストラスバーグLee Strasbergのアクターズ・スタディオthe Actors Studioで学んでいたからだ。)
クリケッツはバディの居場所を知ろうとしてニューヨークに電話し、それからクリア・レイクに電話したが、バディは飛行場に向かっているとのことだった。彼らは翌日夜のムーアヘッドの会場に電話し、折り返し電話が欲しいというメッセージを残した。
ジェリー・ダウヤーJerry Dwyerは飛行機と連絡を取り続けようとし、メイソン・シティやファーゴの空港とも、飛行機から何か聞いたかを無線通信したが駄目だった。最後には行方不明機に関する警報が発出され、夜が明けると、ダウヤーは我慢ができなくなって自分の別の飛行機に乗り込み、ピーターソンPetersonがとったと考えるルートを追った。
リチャードソンRichardsonは衝撃で墜落機から40フィートのところに、バディとリッチーは20フィートのところに飛ばされた。ピーターソンの遺体はまだ飛行機の中にあった。残りの演奏者はムーアヘッドのホテルにチェックインしている間に知り、マリア・エレーナは仕事仲間から知り、ホリーの母親は近所のゴシップ好きから知った。アメリカの他のすべての人はすぐに知った。ムーアヘッドでは、出演枠の代役を務める地元のバンドを選ぶコンテストが開催され、シャドウズが勝ったが、その代表はロバート・ベリンで、自分のことをボビー・ビーBobby Veeと呼んでいた。フランキー・アバロンFrankie Avalonとジミー・クラントンJimmy Clantonは、ツアーの残り二つの出演枠を埋めるために飛行機で行った。そしてショーは続いた。
数年後に書かれたポピュラー・ソングの言葉にもかかわらず、この事故は「音楽が死んだ日」とはならず、既に進行していた進化の中の嫌な時だった。バディ・ホリーBuddy Holly、リッチー・バレンスRitchy Valens、ビッグ・ボッパーGig Bopperを、ボビー・ビーBobby Vee、フランキー・アバロンFrankie Avalon、ジミー・クラントンJimmy Clantonが実際に代わって務めたことは、象徴的でもあった。
もし彼らが生きていたら、リチャードソンは間違いなく既に成功していていたキャリアをカントリーのソングライターとして続けていたであろう。バレンスはさらにキャリアを伸ばし、特にボブ・キーンBob Keeneから解放されればそう言えるが、ボブはサム・クックSam Cookeと何曲かヒットを飛ばしていたがまだアマチュアの演奏者だった。
そしてホリーは、デッカが強制した弦楽器入りのゴードン・ジェンキンスGordon Jenckinsのポップ制作と、クリケットとの折り合いが付けば、将来的にクリケッツトレコ―ディンすることとを、バランスよくやったかもしれない。
現実に起こったことは、クリケッツがレコーディングを続け、ホリーがファイアーボールズthe Fireballsを使って完成した、現存するホリーのレコーディングを、ノーマン・ぺティが多重録音した。
ファイアーボールズはホリーがプロデュースしたインストルメンタル・グループだ。また、ジャック・ハンセンJack Hnasenはニューヨークで録音した楽曲に、他の多重録音を施した。人が死ぬと、きまって輝かしい昇進をもたらすものであり、ぺティはデッカがバディ・ホリーの録音を1969年まで販売し続ける手助けをした。
しかし、「良い音楽」に傾いた演奏者たちは、ますます白人のロックンロールを引き継いだ。黒人音楽でさえ軟化し、プラターズthe Plattersの素晴らしくもダサい、昔の陳腐な演出の「煙が目に染みるSmoke Gets in Your Eyes」が1月、2月にチャート1位になり、クライド・マクファターClyde McPhatterの「ア・ラバーズ・クエスチョンA Lover’s Question」とラバーン・ベイカーLaVern Bakerの「アイ・クライド・ア・ティアI Cried a Tear」は、上品だがティーン受けし、すぐ後にいた。