「次のシナトラ」という肩書にもっと近い競争者は、ブロンクスで生まれたウォールデン・ロバート・カソットWalden Robert Cassotto、Bobby Darinで、ボビーは1958年夏「スプリッシュ・スプラッシュSplish Splash」でアトランティックからデビューした。
この曲は素晴らしい曲というよりはアップテンポの「ディーディー・ダイナDede Dinah」同様ばかばかしい曲だったが、彼の戦略はフランキー・アバロンのようにノベルティー・ソングで子供の注意を惹いてからサパー・クラブのモードに移るというように思えた。
ダーリン(「アーリー・イン・ザ・モーニングEarly in theMorning」、「ナウ・ウィアー・ワンNow We’re One」)とアンカ(「アイ・ゲス・イット・ダズント・マター・エニモアI Guess It Doesn’t Matter Anymore」)の二人は自分の楽曲をクリケット抜きのバディ・ホリーBuddy Hollyにレコーディングさせた。
良い音楽の提供者は全てが男というわけでもなかった。コニー・フランシスConnie Francis(コンセッタ・ローザ・マリア・フランコネロConcetta Rosa Mario Franconero)はMGMに約2年間在籍して、ついに1958年2月、「フーズ・ソーリー・ナウWho’s Sorry Now」がヒットした。
この曲は泣き節のバラードで一気にトップテン入りし、1960年代後半まで続く一連のヒット曲の幕開けとなった。レコーディングは英語、イタリア語の両方で行われた。しかし、彼女には1958年にもう一曲目覚ましいヒットがあって、それは変わったアップテンポの「ステューピッド・キューピッドStupid Cupid」だった。これらの人たち以上のことが起きたのだった。それは、彼らの曲がトップ・フォーティーTop Fortyにぴったりはまったのだった。
しかし、放送時間の多くがインストルメンタルとノベルティ・ソングのレコードで埋められた。ロス・バグダサリアンRoss Bagdasarianは、もうかっていそうだがほとんど知られていないアルメニア系アメリカ人のポップマーケットで最高の作曲家で、「フライング・ソーサーFlying Saucer」の最後の言葉である「さよなら地球の人々Good Bye Earth Pee Pul」の考えを取り入れ、テープにゆっくり吹き込んで早回しし、仕事に生かした人だった。
ロスは、デビッド・シビールDavid Sevilleという名前を使い、1958年のベストセラー「ウィッチ・ドクターWitch Doctor」を録音したが、そのナンセンスなコーラスは早回ししたものだった。
これをきっかけに、副業で俳優をしているカントリー・シンガーのシェブ・ウーリーSheb Wooleyは、究極の宇宙人に関し、「ザ・パープル・ピープルThe Purple People」を作り、そんなしゃべり方をした。
地球はこれをもっと必要としていると勇気づけられ、シビールはとんでもないレコードがいつも出るクリスマスまで待って、「ザ・チップマンク・ソングThe Chipmunk Song」を発売した。
この曲の特徴は、3人の早回しの声がハーモニーを作り、怒涛のようにシップマンクChipmunkとチペッツChipettesのレコードを出したが、勢いは弱まることがなかった。