エルビスElvisにとってグラディスGlasysのいない世界は想像できなかったが、ロックンロールはエルビスのいない世界を想像していかなければならない。
リッキー・ネルソンRicky Nelsonはいたが、エルビスのような激しさには欠ける。
エバリー・ブラザースEverly Brothersのスローな曲は良かった―「夢を見るだけAll I Have to Do Is Dreamは春に大ヒットし、そのB面の「クローデットClaudette」はロイ・オービソンが自分の新妻に捧げて(出版社に対して)書いた」―が、エバリー兄弟が「彼女にちょっかいを出す奴Bird Dog」に「俺のかわいこちゃんに近づくな」というときの脅しは、エルビスが監獄ロックの「トラブルTrouble」を歌うときのようには聞こえなかった。
ブロンクスでは、整った顔立ちのディオン・ディムーチDion Dimucciがリード・ボーカルの、ボーカル4人組である、ディオンとベルモンツDion and Belmontsが「アイ・ワンダー・ホワイI Wonder Why」というレコードをリリースした。
この曲は、黒人グループと同じぐらいすごくて、白人ハーモニー・グループにとっては突破口となり、ディオンはエルビスと伍していけるかも知れなかった。次のエルビスは現れていなかったが、次のリトル・リチャード Little Richardは見つかった。
それは、のちに分かったことだが、リトル・リチャードのオリジナル版だった。スティーブン・クインシー・リーダーSteven Quincy Reeder、別名S.Q.Reeder、別名Esqueritaと言い、ジーン・ビンセンツ・ブルー・キャップスGene Vincent’s Blue Capsのポール・ピークPaul Peekが、ブルー・キャップスの出身母体と同じ怪しげなバーで演奏しているのを見つけた人物で、ピアノを演奏する狂人だった。
リチャードが自伝の中での物語ったように、1950年代初期にメイコンMaconのバス停にいたリチャードを見つけ出した後、ピアノの演奏を教え、ヘアスタイルを作り上げるのを手伝った。
同時に、彼は、「恵みのパン」を売る技のある女伝道師と一緒にツアーに行ったが、たくさんの同様の別名で10年間にわたって現れ、ディスコの時代にはファブラッシュFabulashという名前だった。キャピトルは十分アルバムができるほどの局数を録音したあったのだが、彼をどう扱えばいいのか見当がつかなかった。もちろん、キャピトルはジーン・ビンセントの扱い方も手掛かりがなかったが、ジーンはアメリカよりもイギリスの方がずっと人気があった。結局エスケリータは消えた後、1975年にニューヨークで駐車監視員として突然現れたものの、彼のレコード、特に、「エスケリータ・アンド・ブーラEsquerita and the Voola」を言葉を入れずに叫ぶオペラのようなインストルメンタルは、人々を混乱させたり、楽しませ続けた。
しかしちょっと待って。こう考える人がいたらどうだろう。つまりティーネージャーはヒルビリーやスラム街の音楽にうんざりしていて、本当に必要としているのは次のシナトラだと。
良い音楽が戻って来る時期で、フィラデルフィアのチャンセラー・レコードChancellor recordsがそれに向けて取り組んだのだ。
この会社は、ボブ・マルクーチBob Marcucciとピート・デアンジェリスPete Deangelesが経営し、ハンサムで伝統的なものを重視し、ティーンの親たちが渋々認めるような曲を歌う、ティーン達を狙った。
「私たちは、アーティストにショー・ビジネスのことを教え込む学校を経営している。」とマルクーチはビルボード誌に語った。「私たちは、『ディーディー・ダイナDede Dinah』を作る前に3か月間フランキー・アバロンと取り組んだ。」
このレコードは1958年初めにトップテンに入ったが、アバロン(本名フランセスコ・アバロンFrancesco Avallone)は、フィラデルフィア訛りを利用して「ナッシン・ファイナ」を「ダイナ」と韻を踏んだのだが、チャンセラー学校に行く前はどんなだったろうかと思うのは無理もないことだった。アバロンはハンサムで落ち着いて民族色の無いタイプだったが、フェビアンFabianもそうで、フェビアンの苗字はフォートForteで、アバロンがマルクーチに紹介し、フェビアンはボーカルの仕事をたくさんほしいと言った。
言うまでもないが、ディック・クラークDick Clarkは全面的にチャンセラーを支持し、アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstandでそのアーティストやレコードを徹底的に押し出した。彼らは地元の子などで、ディックのダンス・フロアーから引っ張ってくることができた。
もう一人の競争者がカナダ人のポール・アンカで、1957年の大ヒット「ダイアナDiana」に続いて、翌年には感情を表した「ユー・アー・マイ・デスティニーYou Are Mya Destiny」を出した。
アンカは良い投資だったのだが、それは、才能のあるポップ・シンガーというだけでなく、他の歌手のために曲を書く作曲家でもあったからだ。彼は1983年までだけでも録音した60曲がチャートインした。