ゆっくりとスター集団が現れた。バディ・ホリーとクリケッツBuddy Holly and the Cricketsはすごい勢いだった。
1957年末には「ペギー・スーPeggy Sue」がリリースされ、ジェリー・アリソンJerry Alliosnのガールフレンドの名前をタイトルに入れ、ボーカルではバディのトレードマークのしゃっくり唱法を使った。
続いて1958年初めには、クリケッツの「オー・ボーイOh, Boy!」、「メイビー・ベイビーMaybe Baby」が出た。
バンドは1958年1月に、夏の太陽が輝くオーストラリアのツアーに、ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis、ポール・アンカPaul Ankaと行き、帰国するとヒット曲を作り、3月にはイングランドで演奏するために飛行機に飛び乗ったが、そこでは終わることのない情事に火が付いた。
大使はエルビスを外国に行かせなかったので、バディはイギリスのどの子供も見習うロックンロール・スターのようなもので、現に見習ったが、訳の分からない輸入法のせいでアメリ製のエレキ・ギターを入手することはできず、国内産はとても弱かった。彼らはエド・サリバン・ショーThe Ed Sullivan Showに2回登場し、時間があればレコード制作のためにノーマン・ぺティのスタディオに飛び込んだ。
クリケッツthe Cricketsは進化していた。ニキ・サリバンNiki Sullivanが出て、ギタリストのトミー・オールサップTommy Allsupが入った。
トミーはジョニー・リー・ウィルスズ・ウェスターンJohnnie Lee Wiils’s Westernスィング・バンドの一員で、ノーマン・ぺティNorman Pettyが見つけ、セッション・ワークを申し出た多彩なプレーヤーだった。
バディーとスタディオで仕事をした後、結局クリケッツとツアーに行き、彼のギター・ソロ「ハートビートゥHeartbeat」はトミーにとって効果があった。
この曲のクレジットは、バディとボブの時代に演奏されたという記録はないのだが)バディとボブ・モンゴメリーBob Montgomeryとなっている。
しかし、バディはとても意欲的で、8月にクリケッツがマレイ・ドイチュMurray Deutschを訪ねるためにピアサザン・ミュージックPeer-Southern Musicのオフィスに行ったとき、バディはドイチュの新しい受付嬢マリア・エレーナ・サンチャゴMaria Elena Santiagoを目にしたとたん、恋をした。
バディは、その晩その娘をディナーに誘い求婚した。8月15日、マリアはラボックに飛行機で行き結婚し、ホリーの両親は祝福した。しかし、マリア・エレーナはプエルト・リカンだったので、両親は異人種間の結婚がうまく行くのか心配した。物事は実際に動き始め、バディとマリア・エレーナはグリニッチ・ビレッジにアパートを借り、バディはニューヨークに引っ越した。バディはぺティや、そしてクリケッツとの関係も断ち切ったが、自分のソロ演奏のため、何人かのメンバーは楽団員として使った。バディは夢中になって曲を書き、その中には「ペギー・スー・ゴット・マリードPeggy Sue Got Married」(スーは実際に結婚した)をジェリー・アリソン新郎・新婦の結婚祝として作り、ディック・ジャコブズDick Jacobsのアレンジで弦楽合奏団とレコーディングを始めた。
曲作りをしないときバディはアパートにいて、ノーマン・ぺティから買ったアンペックスAmpex のテープ・レコーダーでデモを録音していた。
このいわゆるリビングルーム・テープのあいだには、マリア・エレーナが台所で何かを炒めたり、曲のあいだにバディばマリアに話しているのが聞こえる。