たぶんチャック・ベリーの実録的な曲づくり手法に影響を受けて、ロックンロールの歌詞は男女のドラマ以外のテーマに入り始めたが、男女のテーマ自体は衰退したわけではなかった。アメリカは景気後退に入ったのだが、それによってこの年最初のビッグ・ヒットが生まれた。シルエッツthe Silhouettesはフィラデルフィアのボーカル4人組で、とても才能が有ったので、ちっぽけなジュニア・レーベルJunior labelが彼らに賭けてみることは問題なかった。
彼らの曲は「ゲット・ア・ジョブGet a Job」で、厳しい歌詞、熟練のハーモニー、足を踏み鳴らし手拍子をする間奏が結びついて、すぐに飛ぶように売れた。ディック・クラークDick Clarkはそれを聞くと気に入ったのだが、厳しいルールがあった。
アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstandは全国放送なので、全国で販売していないレコードはかけなかったのだ。しかし、ニューヨークのヘラルドエンバー・レコードHerald-Ember Recordsはかつてヒット曲(ファイブ・サテンズThe Five Satinesの「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイトIn the Still of the Night」)があり、ジュニアからそのレコードを買い取り、クラークがそれを知ると、すぐさま放送したのだ。
エンバーの社長アル・シブラーAl Silverに言いました。「クラークがレコードをかけた後、朝、オフィスに入っていくと、ドアの下に50万枚のレコードの取り寄せ注文の電報があった。結局、このレコードは200万枚売れた。」この一枚のビニールにはいったい何があったのか?非常に簡単。仕事を求めるティーネージャー(おそらく黒人男性)の苦労だ。他にもある。「家に戻ると、母ちゃんが言うんだ。説教と鳴き声。仕事のことで、俺が嘘をついていると言うんだ。見つけられなかったんだ。」親はわかんなかったんだよね。そこでリーバーとストラーJerome “Jerry” Leiber, Mike Stollerはコースターズthe Coastersに異国風のものを提供する(二人は「ザ・アイドル・ウイズ・ザ・ゴールデン・ヘッドThe Idol with the Golden Head」で、大した成績を残せなかった。)ことをやめて、今までで最高のヒット曲「ヤックリー・ヤックYakkety Yak」を書いた。
この曲は、別の親がそのティーネージャーの子を犠牲にするもので、雑用を言いつけ、宿題を思い出させ、こう言いつける。「外にいる不良友達に言いなさい。乗る時間はないよ。ヤックリー・ヤック。口答えするんじゃない。」あー、ひどく辛辣で、ニューヨークの新しいスタディオのスターであるカーティス・オースリーCurtis Ousley(キング・カーティスKing Curtisのこと)が吹いたすごいサックスフォンでさえ、和らげることはできなかった。
ティーンにとってはつらく、だれもがジョニーBグッドになれるわけではなかった。
(そしてもちろん、まったく理解できない歌詞のついた、ボーカル・グループのレコードもあった。ブルックリンのグループであるシェリフ・アンド・ザ・ラベルSheriff and the Ravelsが演奏する「ションボラーShombalor」だ。
このグループは、リード・シンガーのエルモア・シェリフElmore Shriffと一緒に曲を作っていた西インド諸島の男によって見出された。この曲はほとんど無名だったが、そこから繰り出されるフランケンシュタインやナチなどの弾丸のような早口は抗議の形だっということもできる。)もちろん、大ヒットが出れば、当時は必ずアンサー・レコードが出たもので、「ゲット・ア・ジョブGet a Job」は「ゴット・ア・ジョブGote a Job」を生み出し、この曲は元気いっぱいの意欲的楽観主義で、歌詞はかなりまともだった。この曲はチャンスを求めていたデトロイトのグループによるもので、ジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerのエンド・レコードEnd Recordが拾い上げ、幸運を手にした。
ミラクルズというグループは、デトロイトの若き黒人起業家ベリー・ゴーディー・ジュニアBerry Gordy Jr.が開発したプロジェクトの一つだった。
ゴーディーの家族は企業みたいなものを保有していて、それによって家族のメンバーが、銀行の頼まなくても、借入金や援助を申請してそれを返済でき、既にベリーの失敗したジャズ・レコード店に融資をしていた。ゴーディーは元ボクサー(そして、短期間ビリー・ウォードとドミノーズBilly Ward and the Dominoesのメンバーだったこともある)のジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonと一緒に働いていたことがあるが、ジャッキーはデトロイトの黒人クラブでは有名で、素晴らしい声とステージ上の存在感があり、シカゴのレーベルであるブランスウィックBrunswickと契約していた。
(もしあなたがデトロイトの人で、レコードを作りたければ、たぶんシカゴに行った方が良い。)ゴーディーは友人のタイラン・カーロTyran Carloと一緒に曲を作り、1958年にウィルソンと一緒に何とか4曲をヒットにした。「アイム・ワンダーリンI’m Wanderin’」、「ウィー・ハブ・ラブWe Have Love」、「トゥ・ビー・ラブドTo Be Loved」、そして年末の「ロンリー・ティアドロップスLonely Teardrops」でウィルソンが大ブレークし、R&Bで1位、ポップでトップ・テン入りした。
でも、ミラクルスは?ダメだった。うーん、そうだね、少なくともブランスウィックはお金を払ったんじゃないかな。たぶん。