もちろん問題の一部は全く問題でなく、ロックンロールはリズム・アンド・ブルース、カントリー・ミュージックより大きいのだが、他の二つを取り込んでしまおうという勢いだったものの、三つとも全て少数派の関心ジャンルだった。しかも、成長しつつある白人のティーネイジ市場を少しも考えていない黒人レコード会社は、墓穴を掘る様なものだと、業界紙は社説で書いていた。このことは部分的には正しい。BBキングB.B.Kingはまだヒットを出していて、ジミー・リードJimmy Reedは実にうまくいっていたが、チャック・ベリーChuck Berryはうまくいかず(マディ・ウォーターMuddy Waterのギタリストあるジミー・ロジャースJimmy Rogersと一緒に「ウォーキング・バイ・マイセルフWalking By Myself」でマイナー・ヒットを飛ばしただけだった。)、ドン・ロビーDon Robeyはメンフィスから自分のデューク・レーベルで、新世代のブルース・アーティストの売り出しに努めていた。
ジョニー・エースJohnny Aceはこの時代にふさわしい人だったが、ジュニア・パーカーJunior Parkerをサム・フィリップスSam Phillipsから誘い出し(サムのブルースに対する関心はロカビリーが始まるとすぐに消え失せた)、たくさんのヒットの中で最初の「ザ・ネックスと・タイム・ユー・シー・ミーThe Next Time You See Me」でヒットを飛ばし、ジョニー・エースのサークルから別の若者であるボビー・ブルー・ブランドBobby Blue Blandを選んだ。
ボビーは滑らかな声で歌うのだが、奇妙なうなるような声を差し込み、「ファーザー・アップ・ザ・ロードFarther Up the Road」は自分の故郷以外の聴衆に初めて知らしめることとなった。
主な障害は(あるいは、障害ではない)、すべてのメディアは地方限定だということだ。エド・サリバンEd Sullivanやスティーブ・アレンSteve Allenなどの番組にたまたま登場したことはあったものの、テレビ、ラジオのネットワークは、ロックンロールを一時的流行にしか過ぎないとして扱った。
ビルボードBillboardや他の業界紙はまだ地域のチャートを掲載していて、デトロイト、メンフィス、シカゴ、アトランタでヒットした曲が全国でヒットするかもしれず、そして大ヒットした後消えて行って、次のステップに登ることは無いかもしれないということはわかっていた。
あるいは、ひょっとすると、その地域における別のいくつか市に広がるかもしれない(例えばシカゴからデトロイトとクリーブランドに)が、ニューヨークやロサンジェルスという、マスメディアにとって重要な2都市に飛躍することは決してなかった。しかし、タレントがあふれ出てもポップの生態系が耐えることができるということを、地域主義は物語っているいて、多くの演奏者は人気の目に見えない壁を突き破ることがどうしても、できなかった。この状況はやがて変わるのであるが、徐々にである。このための助けとなったのがテレビとラジオの新しい利用という二つだった。
言われているように、テレビはロックンロールには注目していなかった。テレビ受像機の価格が手ごろになるに連れ、より多くの人たちが買い、見る人が急増した。エド・サリバンショーなどのバラエティー番組以外にも、30分物の連続ホームコメディ、ちょっとした災難の家族向けの話は、最後には心温まる終わり方をした。人気番組の一つがオジーとハリエットの冒険The Adventures of Ozzie and Harrietで、主役は、オジーOzzieとハリエット・ネルソンHarriet Nelson、その二人の息子のデイビッドDavidとリッキーRickyだった。
オジー・ネルソンOzzie Nelsonは優しいバンドリーダーとして成功し、妻のハリエットHrrietは女性ボーカリストで、彼らはどうしたらハリウッドで成功するかを良く知っていたので、レッド・スケルトンRed Skeltonのラジオ番組で説明した概略に基づいて、自分の家族で構成する番組をほのめかし、そのとおり実現した。少年役は最初の数年間、俳優が演じたが、番組がABCテレビに移る1952年までには、家族で演じるようになった。