そして次はリトル・リチャードLittle Richardで、元R&Bサクスフォン奏者のジョー・ルッチャーJoe Lutcherから、次第に圧力を受けていましたが、ジョーは改宗経験があり今はポップ・ミュージシャンに、世俗の生き方をやめるように福音を説いていました。
10月、ロシアがスプートニク人工衛星を打ち上げ大ニュースになった時、リチャードとバンドはオーストラリア・ツアー中で、リチャードは飛行機から人工衛星が見えたとか、「まるで大きな火の玉がスタジアムのすぐ上、頭上200~300フィートのあたりに来たように見えた。心が揺さぶられた。」と叫んだ。
あまりに激しく揺さぶられて、リチャードはその晩ショー・ビジネスをやめることを決断した。翌日、記者会見で「もし神のために生きたいならロックンロールはできない。神はそれを嫌っている。」と発表した。サックフォン奏者のクリフォード・バークスClifford Burksは、シドニー港を渡ろうとフェリーに乗った時、そのことについてリチャードをからかうと、リチャードは真剣さを表すために、8,000ドルの価値のある指輪を外し川に投げ入れた。彼らはその日のツアーをキャンセルしたので、ジーン・ビンセントとブルー・キャップスGene Vincent and the Blue Caps、アリス・レズリーAlis Lesley(「女エルビス」)という他の出演者は立ち往生してしまった。
彼らは帰国しアート・ループArt Rupeからは厳しい言葉を投げかけられたが、リチャードは聖書神学校に入り、何も話そうとしなかった。
エルビスElvisはジョーダネアーズthe Jodanairsと一緒に黒人霊歌を歌うような自由を持っていたが、だれもがそんな自由を持っていたわけではなかった。
ジョーダネアーズは、エルビスが心酔していたスタンプス・カルテットStamps Quartetのようグループではなかった。
エルビスはポップ・レコードと一緒に黒人霊歌もリリースした。事実、4月には、バラードの入ったジャスト・フォー・ユーJust for Youと、ポップ・チャートで25位にタイトル・トラックが入った(ゼアル・ビー)ピース・イン・ザ・バリー(フォー・ミー)(There’ll Be)Peace in the Valley(For Me)の2枚のEP盤を出した。
ゴスペルをやめたもう一つのグループ、ファイブ・ロイヤルズ”5”Royalesは、もし非宗教的にならずとも、キング・レコードKing Recordsと契約したことには、少なくとも後悔し始めていた。
彼らは、1954年以来、次から次へとレコーディングをしたが、良い結果は全く得られなかった。「モンキー・ヒップス・アンド・ライスMonkey Hips and Rice」、
「モホーク・スクウォMohawk Squaw」などのノベルティ・ソング、「ウーマン・アバウト・トゥ・メイク・ミー・ゴー・クレイジーWomen About to Make Me Go Crazy」、
「ライト・アラウンド・ザ・コーナーRight Around the Corner」、
「カモン・アンド・セイブ・ミーCome On and Save Me」などアップ・テンポのロック音楽、「フェン・ユー・ウォークト・スルー・ザ・ドアWhen You Walked Through the Door」、「ゲット・サムシング・アウト・オブ・イットGet Something Out of It」などのソウルフルな・ハーモニー・ナンバー(すべて現代でも驚くべきレコードだが)は、彼らがしつこくツアーで回ったアメリカ南部じゅうのジューク・ボックスには確かに何曲かあったが、ラジオからの反応はなかった。
キングがそれを投げ捨てなかったのは良いことで、上記の曲が全部ニューヨークで当時の優れたギタリストの一人、ミッキー・ベイカーMickey Bakerとレコーディングしたのだから、たぶん誰かがスタディオを変えるように指示決定したのだろう。
しかしロイヤルズの中にはすでに当時の卓得たギタリストの一人がいて、それはギタリスト、作家、バス・シンガーと3分野に優れたローマン・ピート・ポーリングLowman “Pete” Paulingで、2月28日、シンシナティのキング・スタディオでロイヤルズがポーリングに、自由にやってよいと言った時に、素晴らしいことが起こった。
彼らはトップ・テン入りしたR&Bヒット「ティアーズ・オブ・ジョイTears of Joy」というバラードと、それまでで最もゴスペル色の強い曲の一つ、「シンクThink」を録音したのだ。
集団で手拍子するのを特徴にして、ボーリングのギブソン・レス・ポール・ギターの甲高い音がボーカルのアレンジを縫って走る中で、すべての動きをまとめるのに数分間動き、そのあと聞いている人はおそらく楽しんだろう。R&Bのトップ・テンに入り、ポップでは66位まで上がったので、ファイブ・ロイヤルズの成功を獲得した。今や彼らはアポロ・シアター等どこでも演奏し、大人数でのショーのツアーも行った。6か月後、「シンクThink」ははまだどこでもヒットしていて、彼らは戻ってきて再び演奏し、もう4曲録音したが、そのうちの一曲は名曲になったものの残念ながら彼らのバージョンではなかった。
「メッシナップMessin’ Up」はアップ・テンポのダンス・ナンバーでヒットしなかったが、そのB面の「セイ・イットSay It」は、ジョニー・ターナーの嘆くような情熱的リード・ボーカルで、ポーリングがレコーディングした中で最も荒々しいギター演奏とのデュエットで、アンプの限界すれすれだった。
ダメだった。しかし、次の曲「愛する君にDedicated to the One I Love」は、シレルスthe Shirelles、さらにその後ママス・アンド・パパスThe Mamas and the Papasによりヒットして生き続ける。
そのB面、「ドント・ビー・アシェイムドゥDon’t Be Ashamed」は、ゴスペルの改作で、再びローマンLowmanのギターがさく裂している。信じられないかもしれないが、このレコードはおそらくラジオで何回かかかったものの、チャートに登場することは無かった。しかし、1957年、この曲もまた失われた名曲となった。