ロサンジェルスでは、バンプスBumpls Blackwellは忙しかった。
バンプスがスペシャルティにいる時間は限られていて、サムに完済して自由にするための方法を見つけ出す準備をするために、ループArt Rupeはサムの未発売の素材をすべてバンプスに渡した。
バンプスは、自分の所有しているタレントたちを使いこなせる別の企業を探していると発表し、有望な新興企業を見つけ出した。キーン・レコードKeen Recordsは、飛行機部品を製造する会社のギリシャ系アメリカ人ジョン・シアマスJohn Siamasのために投資された会社で、その運営は若いクラリネット奏者ボブ・キーンBob Keeneに任されていた。
バンプスが関心を持っているとキーンは聞いたが、もっと重要なことはバンプスがサム・クックを連れて来るということなので、詳細を詰める始めるために、バンプス、JWアレクサンダーJ.W.Alexanderとの会談を設定した。
その間に、サムはゴスペルシンガーたちにあまり知識のないロサンジェルスを知るようになり、まだ活気のあるセントラル・アベニューを紹介してくれた数人の若者たちとうろついたり、ハリウッドのドルフィンDolphinによく行ったが、そこは有名な24時間営業のレコード店で、ウインドウの中にある無線を使ってライブで音楽をかけ、葉巻をかじる丸々とした黒人のジョン・ドルフィンJohn Dolphinが主宰していた。
(ここはLAの多くの白人ティーネージャーがR&Bレコードを買う店で、この店がハリウッドに近い場所にはないことを承知していたが、彼自身のエンターテインメントの中心地を作ろうと考え、レコード会社の名前をレコーディッド・イン・ハリウッドRecorded in Hollywoodと呼んだ。)サムはバンプスのためにもう数局録音し、9月7日、キーン社におけるサムの最初のレコード、「サマー・タイムSummer-time」、B面は「ユー・センド・ミーYou Send Me」が発売され、そのマスターはループがバンプスに渡した。
B面とされている方がヒットするとラジオが考えたとたんヒットし、かつてびくびくしながら出してみた非宗教的な曲よりも良く売れたので、ゴスペル界から軽蔑の波にさらされることとなった。しかしこれはキーン社(そしてキーン)にとって素晴らしいスタートで、バンプスはスペシャルティ・レコードの他のゴスペル演奏者の耳に、ループは業績が良くなく、もし移籍を考えているなら、新しいレーベルに安息の場を見つけられるかもしれないと、ささやいた。
精神的危機はどこにでもあるようだ。ジェリー・リー・ルイスがサン・レコードのオーディションのためにメンフィスに向かうという決定は、礼拝の際に聖歌に合わせてロック風に踊ったら聖書神学校を追い出されたことによって引き起こされたのだが、「ホール・ロッタ・シェイキンWhole Lotta Shakein’」の次の作品をレコーディングするときになっても、まだ非宗教的になることの腹が決まらなかった。
10月8日、「オール・シュック・アップAll Shook Up」や「冷たくしないでDon’t Be Cruel」をエルビスのために書いた作家であり演奏者でもあるオーティス・ブラックウェルOtis Blackwellが、ルイスのために書きサンに送ってきた2曲をルイスが確認した。
当然「火の玉ロックGreat Balls of Fire」を選び、ジェリー・リーとバンドが練習をしていると突然ルイスが躊躇した。幸いにもジャック・クレメントJack Clementは、セッションの間テープをよく回しっぱなしにしていたので、その後の会話を録音してあった。
まず間違いなくアルコールも入っていて、火の玉ロックのイメージが突然ジェリー・リーの想像力を抑え込み、これ以上できないと言い出した。サム・フィリップスSam Phillipsがスタジオに入り筋道を立てて話しましたが、ジェリー・リーは、彼の言い方によると「世俗的な音楽」を録音しているという考えで麻痺し、サムが何を言っても考えを変えることなかった。
サムの声のトーンはパニックにかられた若者の気を静めようとするものだったが、サムの意見はジェリー・リーよりも理路整然としていて分かりやすいというほどではなかった。テープはジェリー・リーが「おい、俺の中に悪魔が入った。悪魔がいなければ、俺はクリスチャンだ。」と言って終わっている。サムがどう方向転換したかは録音されていないが、ロックンロールにとって幸いなことだが、サムは転換したのだ。ジェリー・リーにとってどれほど幸運だったかは言い表せないほどで、悪魔たちはかなり長い間ジェリー・リーにまとわりついたのだ。