リチャードLittle Richardが叫んだり大声をあげてチャートを上下していたのだが、アート・ループArt Rupeだったら、リチャードを非難することはせずに、女の子の心をとろかすような確かな能力のあるクルーナーを、喜んで受け入れただろうと思う。
サム・クックSam Cookeは、1950年後半、わずか19歳のときからベテラン・グループのソウル・スターラーズthe Soul Stirrersと一緒に歌っていた。
クックは素晴らしく鮮やかなテノールだけでなく、ソウル・スターラーズの中ではしばしばポール・フォスターPaul Fosterとデュエットしたが、フォスターのざらざらした叫び声は、サム・クックのスムーズなスタイルといい勝負だった。
これによって彼らのレコード売り上げには拍車がかかり、当時のスペシャルティSpecialtyのほかのゴスペル・グループ全部の売上をしのいだ。
レコードと同様に、ファンの実態もかなり同じような印象を受け、女性観客の平均年齢がもっと高い中にあってティーネージの少女達の大群は珍しく熱狂する姿を見せていた。幸いにもスペシャルティは1955年7月22日のロサンジェルス・シュラインオーディトリアムShrine Auditoriumにおけるゴスペル番組を録音していて、その再発売CDはリアルタイムで重ね録りなしで番組全体を録音しているので、ソウル・スターラーズの20分近い3曲に充てられていて、クックとフォスターが本気でのめりこみ、女性たちが狂乱状態になるのを聞くことができる。
しかし、クックはさらに飢えていて、ピリグラム・トラベラーズPilgrim TravelersのJWアレクサンダー J.W.Alexanderなど、勧める人がますます増える中で、ポップへの境界線を越えるという考え方を、はじめはびくびくしながらも探り始めた。
クックがソウル・スターラーズと共演するときの拍手喝さいの名演奏は、「ワンダフルWonderful」という曲で、クックはそれを宗教色のない曲に換える件をバンプス・ブラックウェルBumpls Blackwellに話した。
結局12月になると、バンプスはサムをニュー・オーリンズに連れて行き、コズィモ・マタサCosimo Matassaとのセッションを12日に予約した。
彼らは4局録音したがリリースしたのは2曲だけだった。「ラバブルLovable」は「ワンダフルWonderful」を別の歌詞でそのまま作り直したもので、B面の「フォーエバーForever」はサックス奏者のアルビン・レッドAlvin Redがセッションに持ち込んだ曲だった。
ソウル・スターラーズのファンを怒らせることのないことを願って、このレコードは「デール・クックDale Cooke」によるものとして発売されたが、すぐにひどい目に遭った。その理由の一つとして、デールの実態に関する秘密があっという間にゴスペル界に広がり、怒りが膨れ上がったのだ。また、別の理由としては、サムはほかのゴスペル演奏者から、ポップの不確かさとゴスペルの世界でやって行く確かさを、説教されていたからだ。さらにほかの理由としては、レコードの販売促進をするために出てこなかったことだ。そしてもっとほかの理由は、アート・ループArt Rupeがこのレコードをあまり良くないと思っていることと、サムに自立してほしくないという気持ちが強くなったことだ。
ループはまた、バンプス・ブラックウェルBumps Blackwellに疑念も抱いていて、それは、ブラックウェルが持っていると公言していた音楽教育は、仕事を得るためにでっち上げたものであるということだった。
サム・クックのためにポップ・セッションをもう一度やるお金を払うことは、あまり良い考えとは思えなかった。
しかしポップにわたるためにルビコン川を渡ってしまったサムにとって、選択の幅は狭まった。サムはバンプスに、自分がレコーディングしたい数曲を演奏したテープを、ギターの伴奏も自分でやって送り、バンプスはそれをループに持ち込み、もしもう一回サムのセッションをしてみなければ、誰かほかの人に持っていかれると言った。ソウル・スターラーズthe Soul Stirrersとしてはサムがわがままな行動を取っていると思っていたが、サムはこの時点で彼らの曲のほとんどを作っていたので、ほとんどのゴスペルグループがやっていて、ソウル・スターラーズも例外でなかった、入ってきたお金の6分割にいら立っていた。
サムはどうしてももっとお金が欲しかったが、グループはそれを変えようとはしなかった。グループはループに電報を送って、これ以上デール・クックDale Cookeのレコードを発売しないように頼んだ。
「ラバブルLovable」がグループの売上を減少させていると感じたからだ。苦境に陥ったサムは、信頼できる相談相手と考え始めていたJWアレクサンダーJ.W.Alexanderと話した。
JWは明快で感情に流されない見通しを持っていて、サムは今後何年もその見通しを抱き続けたのだが、それは、ソウル・スターラーズSoul Stirrersは自分たちよりも大きな文化的勢力と戦っていて、ソウル・スターラーズとピルグリム・トラベラーズPilgrim Travelersはあまり長く存続できないということだった。
両グループが出演した後に夕食をとりながら、スタートしての仮面を脱ぎ、多少おずおずとして、自分が宗教色のないシンガーとして成功でできるかどうかを尋ねた。JWはサムに、デール・クックの仮面を忘れ、サム本来にならなければならないかもしれないが、もちろん、成功すると言った。そこで1957年5月28日、サムは友人の車に乗ってシカゴ空港まで行き、ロサンジェルス行きの飛行機に乗った。サムはわざわざソウル・スターラーズに辞めるとは言わなかったが、現に辞めてしまった。