バディ・ホリーBuddy Hollyのギター演奏は時々荒々しくなるのだが、それでも彼のレコードには、やさしく、メロディアスなところがあり、それがロックンロールの別の取り組み方になっていた。
その一つがナッシュビルで認められ、アーキー・ブレヤーArchie Bleyerはレコードの売れる才能ある別の人間を発見したと思った。
間違いなくブレヤーにはホリーが必要だった。ブレヤーはケイデンス・レコードCadence Recordsを創立し、昔のボスのアーサー・ゴッドフレイArthur Godfreyが契約すると期待していたのだが、その後契約することは無かった。
ゴッドフレイはスティーブ・ローレンスSteve Lawrenceと契約したが、ローレンスは若いクルーナーで、どう扱って良いか考えあぐねていたキング・レコードからゴッドフレイが契約を持ち込んだものだ。
そしてその後、女性トリオのコーデッツとも契約したが、このグループはゴッドフレイのテレビに登場し、ティーン・クイーンズTeen Queensの「エディ・マイ・ラブEddie My Love」のカバーなど、数曲のヒットがあった。(そのメンバーのうちの一人がブレヤーの妻でもあった。)
しかし、アイオワ州シェナンドーで、自分たちの家族のラジオ番組で演奏することになる二人の子供と組むまでは、本当の意味で大きなヒットを飛ばさなかった。ドンとフィルのエバリー兄弟Don and Phil Everlyは音楽一家の中で育った。
彼らの父親アイクIkeはケンタッキー州出身で、地元のバラードや歌をたくさん学び、ものすごいギター演奏者になっていき、その間、その技術をアイクのところに習いに来た数名のギタリストに教えたが、そのうちもっとも著名なのはマール・トラビスMerle Travisだった。
しかしアイクは音楽を真剣に職業として考えることは無く、床屋など他のたくさんの職業で生計を立てていた。アイクの息子たちは家族番組で育ち、「ちっちゃなドニーとフィル坊や」として紹介され、似た声質のハーモニーは最初から続き、レコーディング番組の後も生き残り、ブルー・スカイ・ボーイズthe Blue Sky Boys、モンロー・ブラザースthe Monroe Brothers、ルービン・ブラザースthe Louvin Brothers、デルモア・ブラザースthe Delmore Brothersによって始まったカントリーの兄弟歌唱伝統に明らかに影響を受けた。
エバリー兄弟がいったん高校を出ると、アイクは家族でナッシュビルのそばに引っ越したが、RCAのナッシュビル・スタディオRCA Studios in Nashvilleを運営していてアイクの友人だったチェット・アトキンスChet Atkinsが兄弟を招いてレコーディングさせた。
アトキンスは兄弟をコロムビアと契約させ、レコーディングしたがうまくいかなかった。そして、パッツィー・クラインPatsy Cline と共演させた(サウ・シャルトゥ・ノット・スティールthe Thou shalt Not Steal)が、アトキンスがナッシュビルの大手出版社であるエイカフ・ローズ・ミュージックAcuff-Rose Musicのウェズリー・ローズWesley Roseに二人を紹介するまで実際にはうまくいかなかった。
ローズは作曲者として契約し、アーチー・ブレヤーArchie Bleyerからレコーディングができるようなタレントを知っているかと聞かれ、エバリー兄弟のことを話した。1957年2月にブレアーは二人と契約し、おそらくオリジナル曲のレコーディングには慎重だったのだろうが、ナッシュビル初のプロの作曲家になる夫婦で、作曲するだけで演奏はしない、フェリスとブードローのブライアントFelice and Boudleaux Bryant夫妻に取り次いだ。
アイク・エバリーはブードローの床屋だったこともあり、この仕事を熱望し、夫妻はバイバイ・ラブBye Bye Loveというアップ・テンポのナンバーを渡した。
この曲は二人の声を誇示するような曲で他の30人の歌手に断られたが、アーチーは突然心配しなくなった。1位は逃したものの、27週間チャートに居続けたのだ。そのレコードのB面はエバリー兄弟自作の「アイ・ワンダー・イフ・アイ・ケア・アズ・マッチI Wonder If I Care as Much」で、二人の作曲に関しての心配は杞憂だったことが明らかになった。
パッツィー・クラインPatsy Clineは、エバリー兄弟が楽曲を売った相手で、ポピュラー歌手になったもうひとりの人だった。
バージニア州ヘンズレーの生まれで、デッカ傘下のマイナー・レーベルであるフォー・スター・レコードFour Starでスタンダード(そしてスタンダード以下の)カントリー曲を録音し、時々グランド・オル・オプリーGrand Ole Opryに登場したが、デッカと契約しブラッドリーズ・バーンBradley’s Barnで録音して初めて、成功したのだった。
オーエン・ブラッドリーOwen Bradleyは、クラインが鼻声訛りのかけらもない、強い、スモーキーな声を持ち、ジャズ・シンガーのように表現するのを見て、カントリー風に飾って歌うことをせず(スタディオ・ミュージシャンの中には、仕事が終わった後、町の反対側に行って黒人ミュージシャンとジャム・セッションをしていて、この歌い方をとても喜んだ者もいた)、クラインの最初のレコード、「ウォーキン・アフター・ミッドナイトWalkin’ After Midnight」で率直なポップ・サウンドの方向に進んだ。その結果、この曲はポップでもカントリー市場でも良く売れた。
クラインが本当に成功するのは数年後のことだが、ナッシュビルの機構組織の中にいるというだけでも、ますます硬直化している状況の中では、新たな動きを意味していた。ブラッドリーはそこに留まらなかった。デッカはブレンダ・リーBrenda Leeという名の11歳のボーカリストと契約したのだが、オーエン・ブラッドリーOwen Bradleyがプロデュースを引き受けるまで、同じように成功しなかった。
このことは、もしブラッドリーがバディ・ホリーを獲得しなくても、カントリー・ミュージックを現代化させ、とても必要とされているクロスオーバー(カントリーの「ヒット」はたいてい、数千枚しか売れなかった。)をもっと頻繁に行うようなアイデアを、彼が持っていたことを意味する。ブレンダ・リーBrenda Leeは優れていて、パッツィー・クラインPatsy Clineはより微妙なニュアンスを出し、エバリー兄弟the Everlysはカントリー寄りだがティーネージ向きだった。ナッシュビルは変わりつつあった。