しかし、このリストには面白い特徴がある。ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis、カール・パーキンスCarl Perkins、ウォーレン・スミスWarren Smith、ソニー・バージェスSonny Burgess、ビリー・リー・ライリーBilly Lee Rileyは、プレスリー後の時代に、706ユニオン通りのサン・レコードが活況を呈することを証明した。
ジョニーとドーシー・バーネットJohnny and Dorsey Burnetteから成るロックンロール・トリオが示したように、メンフィスはロカビリーの発生地だった。二人の兄弟は仲が悪く、彼らの酒量は伝説的だった。もう一人のメンバーは優れたギタリストのポール・バールソンPaul Burlesonで、二人の邪魔をせず、最も突き刺すようなエレキ・ギターを何曲か演奏した。
彼らはメンフィスのクラブで1951年から働きながら、エルビスの成長を大いに関心を持って見ていた。
チャーリー・フェザースCharlie Feathersもミシシッピ州メンフィス近くの出身で、カール・パーキンスのように黒人と一緒に、友達として、そして隣人として成長した。
どういうわけかフェザースはサム・フィリップスSam Phillipsから逃れて、結局キングに入ったが、彼を扱い方を思い描くことがキングには全くできなかった。
ジョニー・ホートンJohnny Hortonはどちらかというと主流派のカントリー・シンガーだったが、若かったのでロカビリーをすぐに理解して、アイム・カミン・ホームI’m Comin’ Homeは今までで最もロック色の強いものだった。
また、R&Bに関しては、ボビー・マーチャンBobby Marchanはニュー・オーリンズの伝統的ナンセンス・ソングに貢献したが、1957年にヒューイ・ピアノ・スミス・アンド・ザ・クラウンズHuey Piano Smith and the Clownsの演奏したジャスト・ア・ロンリー・クラウンJust a Lonely Clownのリードシンガーとして歌ったように、この頃金の指輪をなくした。
ラジオはマディ―Muddy Waterの魅力か、あるいは、アン・コールAnn Coleの魅力かを選ばなければならず、これが理由で、この名曲が消えたのだ。
リチャード・ベリーRichard Berryに関しては、ビルボードの評価はレコードのもう一面の方が高かったが、それは、かつてのルイジアナ州知事ジミー・デイビスJimmie Davisが作ったみんなで歌う曲、ユー・アー・マイ・サン・シャインYou Are My Sunshineだった。
ベリーBerryは、他にロサンジェルスでR&Bのミュージシャンでもあり、地元のローカル・グループとも一緒に歌い、ルネ・トゥゼ・キューバン・アメリカン・チャチャ・グループRene Touzet’s Cuban American cha-cha groupとの仕事などできる仕事は引き受けた。
彼らのエル・ロコ・チャ・チャEl Loco Cha Chaは人の心をとらえる曲で、ベリーはそこからいくつかアイデアを得たが、最も顕著だったのがリズムとコード進行だった。
そして、名曲ワン・フォー・マイ・ベイビーOne for My Baby(And One More for the Road)に漠然と基づいて、女性に恋い焦がれるジャマイカ男についての歌詞を書いた。
ベリーBerryの失敗は、カリプソでなくチャチャをレコーディングしたことだ。たとえチャート入りしたカリプソ・アーティストがハリー・ベラフォンテHarry Belafonteしかいなかったとしても、1957年初期の流行はカリプソだった。
ベラフォンテは、エルビスと同じRCAのレーベルに属し、両親は西インド諸島出身だが、本人はハーレムで生まれた。べラフォンテは1956年後半に「さらばジャマイカJamaica Farewell」を軽い訛りで歌ってヒットさせ、1957年にはバナナ・ボートThe Banana Boat Song (Day-O)でスターになったが、彼のレコードはタリアーズthe Tarriersによる別バージョンの歌と競争になった。
タリアーズは、バンジョーのエリック・ダーリーングErik Darling、そして後の俳優として最も良く知られたギタリストのAlan Arkinとともにアコースティックのトリオを組んだ。
もし流行を予期する者がいたらタリアーズthe Tarriersを見るのが賢明なのだが、1957年初期の時点では、人々はロックンロールをどうにか撃退したかったので、ロックンロールの後継としてカリプソを歓迎した。残念ながらベラフォンテのチャート在籍期間は短く(少なくともシングルのアーティストとしては短かった。しかしアルバムは何年も売れた。)、流行の波によるものや、当時米国でリリースされたのは正統派のカリプソ・レコードは、評判にならなかった。