もう一人のジャズファンであるトニー・ドネガンTony Doneganは自分の聞いたブルース・レコードに憑りつかれた。
トニーのお気に入りはロニー・ジョンソンLonnie Johnsonで、都会のブルース(ビクトリア・スピビーVictoria Spiveyと共演したわいせつな曲で、オーケー・レコードOkeh Recordsから出した「ラケティア・ブルースRacketeer Blues」)と、ジャズ(デューク・エリントンDuke Ellingtonの「ザ・ムーチThe Mooche」の両股をかけていた。
1948年、ジョンソンはひっそりとした時期の後、上品な曲、トゥモロー・ナイトTomorrow Nightをキング・レコードKing Recordsから出して登場したが、チャートで好成績を納め、キャリアを再確立した。
これがきっかけでドネガンはギターを買い、できるだけうまくなろうと演奏を学んだ.
1950年に陸軍に徴兵されるとウィーンに派遣され、そこで初めてカントリー・アンド・ウエスタンとリズム・アンド・ブルースをたらふく米軍ラジオで聞いた。退役した翌年、ロンドンに戻って演奏する機会を求め始めた。フィッシュマンガーズ・アームズFishmongers Armsというパブが採用して、レギュラーのジャズ・バンドの出演の合間にはめたが、トニーにはもっと大きな考えがあった。
トニーは、ザ100クラブThe 100 Clubにたむろして、才能のある奴をチェックし、最終的にビル・ブランスキルのバンドでバンジョーを演奏する仕事を手に入れたが、彼の演奏がとても上手だったので、すぐにバンド名がトニー・ドネガンズ・バンドTony Donegan’s bandになった。
唯一の問題は、いつ彼がスポットライトを浴び、歌い始めたかということだが、人々(当時のガールフレンドを含むと言われている)は、騒音から逃れるために、そのバーによく行ったものだった。それでもトニーには自分に対する信念があって、できるだけ聴衆の前で演奏し、1952年までにはロニー・ドネガンLonnie Doneganと自称していたのだが、それは紛れもなく自分のアイドルであるロニー・ジョンソンLonnie Johnsonに敬意を表してのことだった。
ロニー・ドネガンの名前で、6月のある晩、ロイヤル・アルバート・ホールRoyal Albert Hallにおいて18幕の派手なショーを催したが、彼自身とギターだけだった。
自分でも認めたように、それはひどかったが、舞台では他の誰もしなかったことをしていた。そして、もし批評家がしなくても、観客は熱狂した。その月の終わりには、再びフェスティバル・ホールFestival Hallの舞台にいて、貼り紙によると、企画がジャズ協会全国連盟the National Federation of Jazz Organisation、出演がイギリス、オランダ、スウェーデン、ジャズ音楽家、ラグタイムのピアニストのラルフ・サットンRalph Suttonと他ならぬロニー・ジョンソンLonnie Johnsonという二人のアメリカ人だった。
もちろん、ドネガンが仕事を受けたのは、貼り紙に載っていた有名人がアメリカ人などの外国音楽家についての音楽家組合の禁止に対する抗議として、出演を取りやめた後のことだった。しかしドネガンはとても緊張して、ナイトクラブ音楽ショーを催した、自分のアイドルであるジョンソンに一言も話しかけなかった。その後、クリス・バーバーChris Barberのバンドが解散したという知らせが届いた。ドネガンはすぐにバーバーと連絡を取った。
新バンド結成の一環で、ビル・コルヤーBill Colyerをマネージャーとして採用し、ウォータールー駅でケン・コルヤーと遭った後、バンド名をケン・コルヤーズ・ジャズメンKen Colyer’s Jazzmenに代えた。
すぐにデンマーク・ツアーを行った。そしてその後、戻って来ると、再び改名した。ケン・コルヤーズ・ジャズ・アンド・スキッフル・グループKen Colyer’s Jazzmen & Skiffle Groupになった。
その理由は、自分たちの幕間の音楽がニュー・オーリンズ・ジャズと同じくらい人気のあることに気づいたからで、バーバーBarberがストリング・ベース、ドネガンDoneganとケン・コルヤーKen Colyer がギター、ビル・コルヤーBill Colyerがウォッシュ・ボードを弾いて、アメリカのレコードで覚えたアコースティックなブルース曲を演奏した。ビルは、集めたレコードを隈なく聴き、2枚のアメリカン・エクスクルーシブ78回転American Exclusive 78sの中にダン・バーレイとヒズ・スキッフル・ボーイズDan Burley and His Skiffle Boysというグループを見つけた。
バーレイDan Burleyはピアノ、ポップス・フォスターPops Fosterはベース、そしてスティック・アンド・ブラウニー・マッギーStick and Brownie Mcgheeは他の楽器を何でも演奏した。
彼らはパーカッションとしてスーツケースをワイヤーブラシとともに使い、水差しで音を出し、ハーモニカを演奏し、いつも楽しんでいた。バーレイたちがどこでスキッフルという言葉を見つけたかは分からないが、コルヤーはこの単語を捉え、自分たちのしていることに当てはめた。すぐにジャズメンの聴衆の半分は幕間の演奏目当てで来るひとたちになり、好きな曲に合わせて歌うのだが、その中でレッド・ベリーLead Bellyのミッドナイト・スペシャルMidnight Specialが一番だった。
しかし、コルヤーはバンドの中で摩擦を起こした(特に、飲酒によってケンは手に負えなくなった)ので、1954年半ばに彼らは離れ、再びクリス・バーバー・バンドChris Barber Bandになった。
このバンドは二人を除いて同じバンドであることをすべての人が知るようにさせ、特にすでに10インチアルバムを作成したデッカの人達には、そのことを知ってほしかった。
デッカは、ニュー・アルバムを作るというのは良い考えだと思い、ニュー・オーリンズ・ジョイズNew Oleans Joysというレコードを7月に作ったが、それは8曲入りで、そのうちの2曲がロック・アイランド・ラインRock Island Lineとジョン・ヘンリーJohn Henryというスキッフルだった。
その後デッカは6か月間そのアルバムを発売しなかった。最終的に1955年1月に発売されるととても良く売れたが、ジャズは所詮イギリスでは少数派しか関心を持たないと考えた。しかし、待てよ、他の2曲はどうなんだ?