エルビスのサリバン登場程よく聞く話は無いが、その前にドーシー・ブラザース・ショーに登場している。
最初は1956年1月28日で、ビル・ランドルBill Randleに紹介され、ビッグ・ジョー・ターナーBig Joe Turnerの曲のメドレーや、レイ・チャールズRay Charlesの当時のヒット曲、アイ・ガッタ・ウーマンI Got a Womanを演奏して退場した。
観客は半分しかおらず、聴衆の反応はまちまちで、演奏に笑いが聞こえたり、実際に劇場にいたよりも、たくさんいたように聞かせるために、エンジニアが喝さいを大きくしたりした。しかしその後2回出演し、2回目の時は聴衆が増え、エルビスは他の人のヒット曲を2、3演奏した。三回目の最後の番組では、ハートブレーク・ホテルHeartbreak Hotelとエルビス版のブルー・スエード・シューズBlue Suede Shoesを発表したのだが、大失敗だった。
というのは、ドーシー・ブラザーズDorsey Brothersオーケストラが、ハートブレーク・ホテルのアレンジを理解できず、ステージのおけるエルビスの演奏能力を台無しにしたからだ。
しかし、聴衆の中にいる女の子たちが熱狂し始めたのは、これが最初だった。ドーシーのプロデューサーは大佐に、もう3回の番組の契約書を送った。最後の番組の後、3月28日にバンドはメンフィスに運転して戻り、デラウェア州ドーバーに止まって、入院中のカール・パーキンスに会った。
エルビスはニューヨークにとどまってマスコミ対応をし、スクリーン・テストのためにハリウッドに飛ぶ準備をするとともに、ミルトン・バールMilton Berleのテレビ番組に出演した。
アメリカのポピュラー・ミュージック界は明らかに狂ってしまった。ブルー・スエード・シューズとハートブレーク・ホテルは、ポップ、R&B、カントリーのチャートのトップ・テンで互いにしのぎを削ったが、こんなことは初めて起こったことだった。
ロックン・ロールという言葉が、ケイ・スターKay Starrのヒット・レコード、ロックンロール・ワルツRock and Roll Waltzで分かるように、大衆が認知するようになった。
このレコードは、タイトルは別にして、ロックンロールとは何の関係もなく、なんということか、ワルツだった!ボビー・チャールズのヒット曲、シー・ユー・レイター・アリゲーターSee You Later, Alligatorをビル・ヘイリーBill Haleyがカバーしたのを除いて、1956年初期にポップのトップ・テンにロックンロールとして登場した唯一の曲は、この2曲以外には、フランキー・ライモンとティーネイジャーズのホワイ・ドゥ・フールズ・フォーリン・ラブWhy Do Fools Fall in Loveというすごい曲だけだった。
その登場は一種の間違いだった。ティーネイジャーズはシュガー・ヒルとして知られるハーレム付近出身で、そこはデューク・エリントンなど有名な黒人の出身地だった。
ティーネージャーズにはからくりがあって、それは人種統合ということだ。ハーマン・サンチャゴHerman Santiagoとジョー・ネグローニJoe Negroniハプエルト・リコ人で、残りのシャーマン・ゲインズSherman Gaines、ジミー・マーチャントJimmy Merchant、フランキー・ライモンFrankie Lymonは黒人だった。
実は彼らはティーネージャ―としては知られておらず、自分たちのことを、プレミアーズPremieres、アーミンズErmines、クーペ・ドゥビルズCoup deVillesと呼んでいた。サンチャゴはリード・シンガーで、ある時、リチャード・バレットRichard Barrettは彼らの演奏を聴き、素晴らしいだけでなく、リード・シンガーのスペイン語訛りがすごい仕掛けになると考えた。
バレットは、ジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerのためにラテン・バンドをスカウトしていて、ゴールドナーは、のティコTicoとラマRamaという二つのニューヨークのサルサ・バンドのレコーディング・レーベルを持っているビジネス街の男だった。
バレットは、その子たちをダウンタウンに来させてゴールドナーのオーディションを受けさせた。ゴールドナーは、本物のラテン・バンドなら持っているはずの楽器を持っていなかったので当惑したが、バレットが説得して、ホワイ・ドゥ・バーズ・シング・ソー・ゲイWhy Do Birds Sing So Gayを言う曲を聞かせた。
それは、友達が作曲し、そのガールフレンドが作詞したものだった。(当時、フランキーが自分の学校の先生に対する片思いを書いたものだと言われたが、そうではなかった。)正確に何があったのかという詳細については、ゴールドナーがかなり秘密にしているために、多くのことが明らかになっていないが、フランキーはまだ13歳の子供でも、何とかリードシンガーをつとめた。彼はすぐにカリスマ的存在になり、大抵の子供は音程を外さないためにたくさん声の練習が必要だったが、彼の声は完ぺきだった。ゴールドナーは大喜びし、曲名を変更してレコードにした。彼は引き続きラテン音楽を続け、その分野では重要なレコードをたくさん出したが、ティーネイジャーものを出すためにジー・レコードGee Recordsを設立して、ボーカル・グループ専門のニューヨークのレーベルの先駆者となった。