ロックンロールの歴史 1956年 6

ジョニー・キャッシュは待つ必要はなかった。1954年に軍隊の兵役を終えたばかりの時、メンフィスで電気製品を売り、マーシャル・グラントMarshall Grantとルーサー・パーキンスLuther Perkins(カールとは無関係)の二人とお店でゴスペルの曲をくつろいで歌っていた。

R.I.P. Marshall Grant - 1928-2011 — 3 Minute RecordLuther Perkins | ディスコグラフィー | Discogs

自分たちはとても上手と考えていたから、サンSunにオーディションに行った。

Sun Records Profile - History, Music, and Songs

サムは良い印象を持ったが、ゴスペルではさほど売れないことが分かっていたので、ちゃんとしたカントリーの曲を書いてくれと言った。そしてついに、メンフィスがナッシュビルという巨大な集団に対する脅威となったのだ。キャッシュには、そのための素養があった。

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カールパーキンスと同じように、アーカンソーでは有ったが、赤貧の中で育ち、問題に巻き込まれる傾向があり、2年間陸軍に入り、激動の結婚生活によって、歌の題材はあった。しかし、彼はカントリーの主流でもなかった。フィドルも、スティール・ギターもドラムもなかった。ジョニー・キャッシュとテネシー・トゥーJohnny Cash and the Tenessee Twoは、キャッシュCash、ベースのグラントGrant、ギターのパーキンスPerkins、それだけだった。

Johnny Cash With The Tennessee Two* - His Top Hits (1988, Vinyl) | Discogs

それでも、有名なサンのスラップバック・エコーSlapback Echoに少しは支えられて、彼らのフォルサム・プリズン・ブルースFolsom Prison Bluesは最初からヒットした。

1950s STYLE SLAPBACK ECHOJohnny Cash - Folsom Prison Blues (1968, Vinyl) | Discogs

この曲の中で、キャッシュは、男が死ぬのを見るためだけに、リノで平然と殺したことを認めるのだが、これもカントリーの普通の内容ではなかった。ともかくも、この曲は1955年のカントリー・トップテンになった。テレビがロックンロールに乗り気になるには時間がかかったが、その主な理由は、その規模が小さく、ほとんどの人が一時的な流行だと感じていたことだ。こんな変な連中を宣伝しなくても、番組にはよいミュージシャンが十分にいた。しかしバラエティー・ショーがより人気になるにつれ、ミュージシャンが演奏する時間割り当てが広がった。ニューヨークの新聞コラムニストのエド・サリバンEd Sullivanはもっともよく見られたバラエティー・ショーで、アクロバット、手品、操り人形、変わった楽器奏者というように何でも出演させるように見えた。

エド・サリヴァン - Wikipedia

1955年、サリバンはトミー・ドクター・ジャイブ・スモールスTommy “Dr. Jive” Smallsに、自分のラジオ番組でかけているR&Bのタレントを、サリバンの視聴者に見せてくれるように依頼したところ、スモールスはラバーン・ベイカーLavern Baker、ボ・ディドリーBo Diddley、ファイブ・キーズthe Five Keys、そして全員のバック演奏をするウィリス・ゲイター・テイル・ジャクソンWillis “Gator Tail” Jacksonのバンドを送り込んだ。

Tommy Smalls (August 5, 1926 – March 8, 1972) known as Dr. Jive, was an influential African-American radi… | Roots music, African american, African american historyMarv Goldberg's R&B Notebooks - Lavern Baker

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残念なことに、サリバンのプロデューサーの一人が創作的にやることを決めた。その週に全国で流行っていた曲の中に、アパラチアン炭鉱におけるマール・トラビスMerle Travisの生活の話、16トンSixteen Tonsがあって、そのプロデューサーは、その番組でボ・ディドリーがギターを持って演奏することを決めたのだ。ボ・ディドリーが録音をしたことがなくても、ついでに言えば、歌詞や転調を知らなくても構わなかった。

Merle Travis - Sixteen Tons (2002, CD) | Discogs

その曲の練習をさせ、カンペに歌詞を書き、ディドリーはそれを演奏する予定だった。しかし、当時のテレビと同様に、エド・サリバンは生放送で、ディドリーが歩いてくると、カンペを無視して自分の曲を演奏したのだ。そして、あとでプロダクション担当に直面した時、「あのなあ、カンペに書いてあったのは『シックスティーン・トン』だったかもしれないが、俺に見えたのは『ボ・ディドリー』だったんだ。」と言った。そんな風にしか見えない眼鏡をかけていたに違いない。

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