カールCarl Perkinsは運よくブルー・スエード・シューズのレコードを一枚手に入れた。
というのは、誰もが期待した以上に売れだし好調だったのだ。サムはクリーブランドの販売業者から電話を受けた。
ビル・ランドルBill Randleはベテランのディスクジョッキーで、最初からロックンロールを理解し、自分のプログラムに慎重に何曲か加えていたが、このレコードに飛びつき、25,000枚をすぐに欲しいと言った。
ボブ・ニールBob Nealはパーキンス・ブラザースPerkins Brothersの予約を取り、ジョニー・キャッシュJohnny Cashと一緒に巡業に出した。
ダラスのオープリーOpryのような、ビッグ・ディー・ジャンボリーBig D Jamboreeにカールの予約を取ったが、そこでは単なる大成功にとどまらず、すぐにバンドはテキサスとニュー・メキシコ中で演奏することになった。
この成功は新しいもの好きというテキサスの長い歴史と、カントリーミュージックの変わった形(カールが自分のしていることを、当時ロカビリーと称していた)に助けられていた。また、カールとキャッシュはどこへ行ってもサムのアドバイス通り、ラジオ局に出向き、レコードをかけてくれたお礼を言って、販売促進した。
キャッシュのレコード、ソー・ドッゴーン・ロンサムSo Doggone Lonesome、B面フォルサム・プリゾン・ブルースFolsom Prison Bluesも良く売れ、1月から2月に移るころには、ますます仕事を注文することができた。
そして2月の終わりまでに、何か大きなことが起きていた。ブルー・スエード・シューズBlue Suede Shoesがポップ・チャートに入ったのだ。
エルビスのRCAでの最初のシングル、メイ・ボーレン・アクストンMae Boren AxtonのHeartbreak Hotelも同様に入っていた。
エルビスはニューヨークRCAスタジオでレコーディングに熱中していて、できるだけ早くアルバムを出す準備をしていた。完了した曲の中の1曲がブルー・スエード・シューズだった。エルビスもRCAもそれをシングルとして出す予定はなく、アルバムだけだった。エルビスは2月の2回目のテレビ出演である、ドーシー・ブラザース・ステージ・ショーThe Dorsey Brothers Stage Showで演奏したが、最初の出演の際には、既に録音済みの別の曲、トゥッティ・フルッティTutti Fruttiを演奏した。
3月はカールにとって、レコーディングやら演奏やらであっという間に過ぎ、4月にはオザーク・ジュビリーOzark Jubileeテレビ番組に出演した。
そしてサムはカールにニューヨークの全国番組ペリー・コモ・ショーに出演が決まったと伝えた。
サムが言わなかったことは、ブルー・スエード・シューズに対してゴールド・ディスクがサプライズで授与されることになっているということだ。
これは、100万ドル相当のレコードが売れ、アメリカレコード協会 Recording Industry Association of Americaが認証するものだ。
サムは格好よくニューヨークに行けるようにクライスラー・リムジンを借りていたが、バンドはそれに乗って3月21日にバージニア州ノーフォークに停車し、ノーフォーク公会堂Norfolk Auditoriumで演奏した。
興行主はある男の子についてカールの意見を聞きたがった。その子は、興行主が契約したばかりで、これからプロデュースすることになっていて、オートバイ事故で左足を損傷した後、海軍を除隊になったジーン・クレドックGene Craddockだった。
カールはその子とバンドを見て、録音することになっている曲を演奏するのを聞いた。カールは興行主に「ブルー・スエード・シューズみたいな曲で、大したことは無いが、印象的な昔なじみの曲だ。」と言った。それから、カール達は売り切れの会場を大騒ぎにした後、リムジンに戻ってニューヨークに向かった。
翌日朝日が昇るころ、リムジンの運転手は運転中に眠ってしまい、トラックに追突した。リムジンは4回転してガードレールを突き破り、橋の横から出て小川に落ちた。ドラマーのフルーク・ホランドFluke Hollandは最初に起きて、カールが後部座席の下に挟まれ、頭が水につかっているのを見つけた。
ホランドはカールをつかみ、安全なところに引っ張り出した。ジェイは首を折り内部損傷を受け、バンドの残りは打撲を受けたものの重症ではなかった。トラック・ドライバーは死亡した。カールはけがをしたが、とりわけ、鎖骨骨折と脳震盪になった。ペリー・コモは待たなければならなかったし、カール・パーキンスも同じだ。