問題は(あるいはバディBuddy Holleyのようにポジティブな考え方をするのなら、調整だが)、町に入ったとたんに始まった。
デッカはバディに、自分のバンドを使うのはOKだが、ボーカル・マイクに音漏れする懸念があるので、リズム・ギターで演奏することを嫌がり、ナッシュビルのセッション・マンであるグラディ・マーチンGrady Martinを呼んだ。デッカはロックンロールのドラムも気に入らず(アリソンJerry Allisonはまだラボックにいたので、バディのバンドから調達しようとはせず)、パーカッション演奏のために、ダグ・カークハムDoug Kirkhamをリストアップした。
セッションを監督していたのは、スタディオのオーナーであるオウエン・ブラッドリーOwen Bradleyで、彼のかまぼこ型建築物は伝説的音響特性があり、ブラッドリー小屋としてナッシュビル中に知れ渡っていた。
1月26日のセッションでは、4曲できた。ブルー・デイズ・ブラック・ナイツBlue Days, Black Nishts、ドント・カム・バック・ノッキンDon’t Come Back Knockin’、ラブ・ミーLove Me、そして唯一、オリジナルでない曲、ミッドナイト・シフトMidnight Shift、だった。
(バディがかわいい、純真な子供とみていた人達にとっては、最後の曲は「アニーAnnie」シリーズの遠い親戚で、「アニーちゃんに会ったら、乗せてあげたら良い。
だって、アニーは深夜シフトで働いていたんだから。」という歌詞で始まるので、バディの危険な内面を見ることになる。)デッカへの任務を果たし、彼らは車に乗り込み、ラボックへと運転して帰った。4月になって一枚のシングルが発売された。それは、ブルー・デイズ、ブラック・ナイツで、B面は、ラブ・ミーだった。どちらもバディが望んでいたものをうまく表現していなかったし、さらなる問題としては、ラベルの彼の名前を“Holly”と誤記したのだ。デッカ・レーベルにはビル・ヘイリーBill Haleyがいたにもかかわらず、デッカはバディをどう扱ったらよいか分からなかった。
(ヘイリーはニューヨーク・オフィスを通して契約していたが、ニューヨークはナッシュビルよりもポップ・ミュージックを扱うのに慣れていた。)振り返ってみて、オーエン・ブラッドリーOwen Bradleyはホリーの伝記作家ジョン・ゴールドローゼンJohn Goldrosenに、「良い組み合わせではなかった。
相性が良くなかった。意図したものではなかった。私たちには分からなかったし、バディはどう話したらよいか分からなかった。」と認めている。そして、レコード売り上げ、ラジオ放送はそれを反映した。それも仕方ない。まだ契約があり、その年の後半、ナッシュビルでセッションがあった。
サンに戻って、カール・パーキンスCarl Perkinsはチャンスを待っていた。
彼はできるだけうろうろし、エルビスと良い友達になった。サムSam Phillips はよくパーキンスCarl Parkins のリハーサルをし、取り組んでいる考えを着ていた。
というのは、パーキンスには間違いなくカントリーの曲、そしてロックの能力に対しても、才能があるところに興味をそそられたからだ。結局エルビスのすることはパーキンスもやり、レコーディングをしてもらいたかった。ある日サムは、パーキンスの音楽は変わっているのだから、衣装もそれに見合ったものにした方が良いとアドバイスし、ランスキーLanskyの店を紹介した。
その店で、エルビスやメンフィスのR&Bのアーティストたちの多くが衣装をあつらえた。みんな自分の買い物をし、エルビスは友人のために青いシャツを見つけ、黒いスラックスによく合うと言った。カールは、タキシードのズボンに組み合わせた絹の縞模様生地に興味をそそられ、家に持ち帰って、奥さんに、ピンクのリボンを足に縫い付けてもらった。みんなが会った翌日、エルビスはそれを見て感心し、カールはヒルビリー・キャットHillbilly Cat!のショーの人気を奪った。
こうなると、カールは衣装に合音楽を手に入れなければならなかった。サムは、組合に入らないミュージシャンのために使っていたフリップFlipというレーベルを持っていて、カールの最初のレコードは、このレーベルから1955年2月に発売された。カールはカントリーの曲を出すためにサンに移籍し、9月に「ゴーン・ゴーン・ゴーンGone, Gone, Gone」、そのB面は「レット・ザ・ジュークボックス・キープ・オン・プレーイングLet the Jukebox Keep On Playing」を出した。
しかしその時点ではエルビス周辺のドラマがあったために、ジュークボックスはメンフィスのカントリー・レコードとしては秀逸だったし、ゴーンはロックンロールに近づいていたにもかかわらず、良い結果は出なかった。1955年の夏には、カール、エルビス、そして最近サムが契約しすぐにカールのお気に入りになったジョニー・キャッシュがいて、メンフィス周辺で何回か小さなショーを開いた。
そしてある日、アーカンソー州パーキンで、彼らは楽屋でうろうろしていた時、キャッシュはカールの最近何か曲を書いたかと尋ねた。「特に大したものは書いてない。」とカールは答えた。