ブラックウェルBumps Blackwellはバーの電話まで行って彼女に電話し、J&Mスタジオに来て曲を書き直す手伝いをしてほしいと頼んだ。
レディに対してそんな歌詞を朗読することさえできないから、リチャードLittle Richardは怖くなった。彼女は既婚で子供もいるし、リチャードを救うためにそこにいるということを言って、バンプスとラボストリー夫人Dorothy Labostrieを安心させた。
そこでリチャードは彼女を隅に連れて行って、一行一行歌詞をささやき、彼女はノートブックに走り書きした。時間はドンドン過ぎていき、ミュージシャンはいらいらしてきた。サックス奏者は既に楽器を分解してケースにしまった。残りは15分で、ヒューイ・スミスHuey “Piano” Smithがピアノ・パートを覚えるには十分な時間がないので、リチャードがデュー・ドロップ・インの演奏を再構築することを意味します。
ラボストリー夫人が詩を完成させて、「ちょっと待って!」とバンプスが言って、サックスフォン奏者にそれを見せた。リチャードはピアノにつき、バンプスの助けを借りてアレンジし、10分後に2回テイクをした。ミュージシャン達はまだそれをばかげていると考えていた。「演奏した時には、まだ僕にはばかげていると思えた。」とギタリストのジャスティン・アダムスJustin Adamsは後に言っている。「価値がなかったということじゃない。でも、やるべき項目をこなしただけさ!」しかし、セッションで本当に重要だったのはアール・パーマーEarl Palmerで、彼は少しもスイングを感じさせずに、機械的なバックビートによって歌を推し進めた。
「あの演奏は曲が望んだものだと感じた。その時はたいして良いとは思わなかったし、何かが始まるとは思わなかった」と、彼らしい控えめな言い方をした。しかし、なんと、始まったのだ。2回のテイクを録った5分間で、アール・パーマーはロックンロールのドラミングを発明し、何十年も続き、無名でも裕福になるリズム・パターンを作り上げた。リトル・リチャードも何かを発明した。記憶を遡れば、何年も苦労し、南部の黒人ゲイ・バーという闇の世界に生き、バス・ステーションや怪しげなバーで皿洗いをしながら大声で叫び、リトル・リチャードを発明し終えたのだった。ブラックウェルはロス・アンゼルスにテープを持ち帰り、ループ氏に、これは次の「メイベリン」だと話した。なぜなら、ループが説明したように、「この曲はアップテンポで、ノベルティの歌詞が付いてる。実のところ、これを選んだのは単にテンポだけでなく、野性的なイントロと・・・。面白いのは、この曲がヒットした速さだ。これほど早くはヒットしないだろうと思っていた。12月までに、ポップ・チャートのずっと上の方に這い上がって行った。―なんと、ポップ・チャートだ。
アメリカは非常事態に入るところだった。既に防衛は集結しつつあった。一方、ナッシュビルでは、身だしなみが良く、話し方が上品な、チャールズ・ユージーン・パット・ブーンCharles Eugen “Pat” Booneが、反エルビスという気違いじみた試みだったのかも知れないが、ランディ・ウッドRandy Woodのドット・レーベルDot labelであくせくしていた。
黒人のレコードのつまらないカバーをリリースしていたのだが、それが、エイント・ザット・ア・シェイムAin’t That a Shame、アット・マイ・フロント・ドア(クレージー・リトル・ママ)At My Front Door (Crazy Little Mama)で、そして、本当に信じられないことだが、オリジナルとほぼ同時に、トゥッティ・フルッティだった。(あまりうまくいかなかったが、この後も続いた。)
この音楽が少年非行を引き起こすのかどうかを見るための研究が始まった。ウォルト・ディズニーWalt Disneyはテレビ番組ディズニーランドDisney-landを持ったが、それは遊園地と同様に、週毎の番組、トゥモローランドTomorrowland、アドベンチャーランドAdventureland、ファンタジーランドFantasyland、フロンティアランドFrontierlandに分かれていた。
フロンティアランドは、デイビー・クロケットDavy Crockettの生涯を連載した。
クロケットは、テネシーの野外活動好きの人でテネシー州を出てテキサス州に向かう(彼の仕えていたテネシー議会に発せられた有名な言葉は「私はテキサスに行き、君は地獄に行く。」)のだが、テキサス革命の間にアラモを守って死んでしまう。
この逸話のテーマ・ソングは4人の演奏者(ビル・ヘイズBill Hayes、テネシー・アーニー・フォード”Tennesee” Ernie Ford、ディズニーのシリーズでクロケットを演じたフェス・パーカーFess Parker、ウォルター・シューマンWalter Schumann)によってとてつもないヒットとなり、アライグマの毛皮製の帽子とBB銃が流行した。
しかし、1955年も終わり、ドリフターズthe Driftersのホワイト・クリスマスWhite Christmasが毎年恒例でチャートを上昇し始めたものの、変化はまだ始まったばかりだった。