2月6日、エルビスはメンフィスのエリス公会堂Ellis Auditoriumのショーの出演予定が入っていた。
この会場はかなり大きく、ビラでは、エルビスは、ファロン・ヤングFaron.Young、ファーリン・ハスキーFerlin Husky、ゴスペル・シンガーのマーサ・カーソンMartha Carsoの下にあり、4番目に演奏する。
エルビスの新マネージャーであるボブ・ニールBob Nealは会議を立ち上げた。
メンバーは、エルビス、スコッティScotty、トム・パーカーTom Parker、サム・フィリップスSam Phillips、オスカー・デービスOscar Davis(パーカーの先遣要員)、ハンク・スノウ巡業を取り仕切っている会社、ジャンボリー・アットラクションズJamboree Attractionsで大佐とスノウのパートナーだったトム・ディスキンTom Diskin。
エルビスは数日後に始まるコンサートに既に出演が決まっていて、エルビスのプロ活動関係者全員が、エリス公会堂のすぐ近くで一堂に会するのは良い考えだと思った。とても張り詰めた雰囲気だった、と全員は語っている。パーカーは最初に、「サン・レコードにいては、エルビスは成功しない」とサムを侮辱した。確かにRCAにいるほどは成功しなかっただろう。サムは、昔カーニバルで働いていたパーカーを既にひどく嫌っていた。ニールは、来るべき巡業の議題を持ち出して事態を落ち着かせなければならず、その点に留意しながら、パーカーと協力してエルビスを、例えばレコード売り上げを増やすような、まだ経験していない領域に踏み込ませることができる。ニールとパーカーは既に巡業を手配し、将来一緒に働くことを楽しみにしていた。エルビスとスコッティ―はこのドラマが進行する間、ただ座っていて、最後にはショーで演奏するために席を離れた。
巡業は計画通り実施された。エルビスの最大の市場である西テキサスを通り、5月に南に下ってフロリダに行ったとき、メイ・ボーレン・アクストンMae Boren Axtonと出会った。
彼女は、興行主で、教師、ジャーナリスト、作曲家もこなしていた。アクストンはパーカーと面談し、ショーの販売促進を共同で行い、パーカーがエルビスに関心を深めていることに気づいた。パーカーの「目にはドルマーク」が付いていたと、後にアクストンは言った。Jimmie Rodgers Snowの手伝いで、そこに来ていたRCAの広告マンはエルビスに感動し、そしてパーカーが関心を持っていることを知り、レコード店に行ってエルビスの完全カタログ―その時点ではシングル4枚―を購入した。
それをRCAのカントリー部門の責任者、スティーブ・ショールズSteve Sholesに渡すためにナッシュビルに持ち帰った。
ショールズも感動した。しかし、他に動きはなく、ボブ・ニールとエルビスの合意は再交渉され、1956年まで続いた。
ところが、カントリー音楽は少し変化していた。23歳のファーロン・ヤングFaron Youngは、1953年に、初ヒットであるゴーイング・ステディGoing Stedayをレコーディングした時、より若いファンを狙っていた。
そして、彼の1955年のヒット曲、リブ・ファースト・ラブ・ハード・ダイ・ヤング(アンド・リーブ・ア・ビューティフル・メモリー)Live Fast, Love Hard, Die Young(And Leave a Beautiful Memory)で少年非行領域ギリギリのところまで踏み込んだ。
また、エルビスのサン・レコードの2曲さえも、その年チャート・インした。ベイビー・レッツ・プレイ・ハウスBaby Let’s Play House(R&Bアーティストのアーサー・ガンターArthur Gunterのカバー)と、メンフィスのファンが書いたアイム・レフト・ユアー・ライト・シーズ・ゴーンI’m Left, You’re Right, She’s Gone、サムが一緒に働いていた若い歌手チャーリー・フェザーズCharlie Feathersが書いたアイ・フォーゴット・トゥ・リメンバー・トゥ・フォーゴットI Forgot to Remember to Forgetだった。
その曲のB面はパーカーの子供が書いたミステリー・トレインMystery Trainだ。どちらもポップ・チャートには入らず、相変わらずエルビスは変わったカントリー・アーティストだった。まだ、他のカントリー有望候補が注目を集めていた。ロイ・オービソンRoy Kelton Orbisonはバンドを持って、西テキサスの他の場所でラジオ番組に出ていて、エルビスは不快で服装が悪いと思っていた。
ボブ・ルーマンBob Lumanはギターをもっと練習すると誓っていた。
ルーボックのバディ・ホリーBuddy Hollyとボブ・ルーマンはウィチタ・フォールズにあるネスマン・レコーディング・スタディオNesman Recording Studiosに行った。
もちろん、遠くのダラスにあるスタジオやKDAVスタジオにも行った。
二人はKDAVで番組を持っていて、スカウトしてくれるかもしれないレコード会社にデモを送るために、オリジナル曲をたくさん録音した。二人のカントリーはとても正統な曲で、フィドル演奏者のソニー・カーティスSonny Curtisやドラマーのジェリー・アリソンJerry Allisonに、スタジオで手伝ってもらうことも時々あった。