サム・フィリップスSam Phillipsは、もう少しうまくやった。
グッド・ロッキン・トゥナイトGood Rockin’ Tonightは売れ行きが良く、1955年1月1日、エルビスは、クラブ業界とナッシュビルに大いにつながりのある地元のカントリー・ミュージック歌手、ボブ・ニールBob Nealとマネージメント契約を結んだ。
ニールと関係することによって、スコッティ―・ムーアScotty Mooreはバンドの出演契約をやめ、もっとも得意なこと、つまりギター演奏に戻った。そしてエルビスの名声はテネシーの外にも広がった。
テキサスのつながりはしっかりしていることが分かり、エルビス、スコッティ―、ビルは、ヒューストンの盛大なニュー・イヤーズ・イブ・ショーで演奏した。
もっと大きなテキサス・ツアーが近々、その年の初めに催されるので、西テキサスのずっと向こう、ルーボック行ったが、この町には大学と伝説のクラブ、コットン・クラブthe Cotton Clubがあった。
この名前はハーレムの場所にちなんだのではなく、この地域の主作物の名前である。このツアーは、ウェスタンのスィング・フィドラーであるトミー・ハンコックTommy Hancockが管理し、黒人や白人(もちろん別々の夜)のエンターテインメントを売り物にして、デューク・エリントンDuke Ellingtonやアーネスト・タブErnest Tubbも入っていた。
当然、エルビスは、新進気鋭のカントリー・デュオやそのマネージャーを含む、好奇心の強い地元の人たちを惹きつけた。名刺によると、チャールス・ハーディン・バディ・ホリーCharles Hardin “Buddy” Holleyとボブ・モンゴメリーBob Montgomeryは、ウェスタン・アンド・ボップWestern and Bopを演奏したとある。
その名刺には、地元のカントリー・ラジオ局KDAVのDJであるハイ・ポケッツ・ダンカンをマネジメントの連絡先としてある。
バディとボブはどんな仕事でもできるだけ演奏し、徹底的に競争相手の研究をした。彼らも休憩時間にラジオ局でいくらかレコーディングした。しかし、ほとんどのルーボックのティーンたちと同様に、実際にはそのラジオ放送は聞かなかった。というのは、カントリーミュージックはダサかったからだ。自分たちと同じ年の、この男の子、エルビスがコットン・クラブの舞台で大騒ぎしているのを見るのはちょっとした驚きだった。幕の合間に、バディーとボブは男の子のところへ出向いて行くと、男の子は隅で一人コークを座って飲んでいた。「あのね、彼は本当に素晴らしい、優しい男だった。」と後にバディは、ハイ・ポケッツHi Pocketsに話した。翌日、高級自動車ポンティアックPONTIACの販売特約店の大オープンのショーが有り、エルビス、スコッティ、ビルが演奏し、バディやボブも出演したので、テネシーから来た連中と少し友達になった。
そして次の数週間、バディとボブはエルビス・プレスリーの曲のリクエストが段々増えたので、学んで行った。次にエルビスが来た時はバスに乗っていて、そのバスをバディとボブが町境で捕まえた。エルビスは下車して車に乗り換え、バディたちが、大したところは無いがルーボックの流行りの場所のツアーに出かけ、コットン・クラブでエルビスの前座を務めた。
西海岸では、新たな波の到来が変化をもたらした。モダーン・レーベルModernが最初の犠牲者だった。
モダーン・レーベルはほぼ壊滅され、比較的新しいRPMレーベルにほぼすべてが集中されたが、ここ所属で唯一着実に売れていたアーティストが、B.B.Kingだった。
モダーンを使ってエッタ・ジェームスEtta Jamesが紹介され、彼女のザ・ウォールフラワーThe Wall flower(ロール・ウィズ・ミー・ヘンリーRoll with Me, Henryとしても知られる)は、ワーク・ウィズ・ミー・ヘンリーWork with Me, Annieのいかがわしくないバージョンで、ワークが明らかにダンスになっている。
白人シンガーのジョーギア・ギブスGeorgia Gibbsはすぐに飛びつき、彼女のバージョンのダンス・ウィズ・ミー・ヘンリーDance whit Me Henry(ウォールフラワーWallflowerとしても知られる)は3月に、ナンバー・ワン・ポップ・ヒットとなった。
(ギブスは既にこの年、ラバーン・ベイカーLavern Bakerのトゥイードル・ディーTweedle Deeのカバーでスタートしていて、そのせいでベイカーがポップ・チャートで上昇することをすぐに妨げた。
ベイカーにとっては最初のレコードなので、オリジナルを発売したベイカーとアトランティックAtlanticの関係者は不愉快だった。)少なくとも、ハンク・バラードは自分の曲をジェームス(そしてギブス)が横領したことについて、ユーモアの持って受け入れ、(ヘンリーは偏平足という意味の)ヘンリー・ゴット・フラット・フィート(・キャント・ダンス・ノー・モア)Henry’s Got Flat Feet(Can’t Dance No More)をこの年の後半にリリースした。しかし、ジェームスのモダーン在籍は長く続かなかった。