ロックンロール誕生・・・たぶん
ドン・ロビーDon Robeyにとって、1954年は楽しいクリスマスではなかったが、それまでは、彼にとって良い年だった。
手ごわいエブリン・ジョンソンEvelyn Johnsonが運営していた、ロビーのバッファロー・ブッキング事務所Buffalo Booking Agencyは、この地域における主要な黒人巡業アーティストの出演契約を一手にさばいていた。
とりわけ、B.B.Kingの出演契約は独占的に扱っていた。
ロビーのブロンズ・ピーコック・クラブBronze Peacock clubは、ヒューストンを通過する一流の巡業アーティストにとって、唯一考えられる演奏場所で、巡業中もっともしゃれたクラブの一つなので、アーティストが一週間の出演契約を取り合った。
ロビーは大体において従業員の扱いがうまかった。ロビーのレコード・レーベルは全国的に好調だったが、地元ではクレアランス・ゲートマウス・ブラウンClarence “Gatemouth” Brownがローカルヒットを出していた。
ソングバードSongbirdレーベルのゴスペルのレコードは着実に売れ、ロビーがジョニー・エースJohnny Aceを獲得するために買収したデュークDukeレーベルは良い投資だったことが証明された。
エースがロビーと一緒になってから、エースのレコードは一つ残らずR&Bトップ・テンに入ったのだった。彼の次の曲、プレッジング・マイ・ラブPledging My Loveは、ものすごい勢いで上昇しそうに思えたので、ロビーは、クリスマス明けまでリリースを控えていた。
エースは、ヒューストン市公会堂の豪華なクリスマス・イブ・ショーでその曲を初演することになっていて、エースと彼のバンドと楽屋が一緒だった、ウィリー・メイ・ビッグ・ママ・ソーントンWillie Mae “Big Mama” Thornton等、ロビーが管理する大勢の演奏者を差し置いて主役を務めた。
そこで起きたことは様々に言われているが、全くかけ離れているわけではない。ジョニー・エースが銃好きでいつも持ち歩いているというのは、誰もがする話だ。このことはある程度、クラブ巡業で働くものなら、黒人演奏者だけでなく、たくさんの演奏者がしなければならないことだ。夜の終わりに、クラブ・オーナーやコンサートの興行主を脅して、法律上支払い義務のあるお金を出させることは、唯一の方法だということが度々あった。楽屋での強盗はよく聞く話だ。それでもジョニーは、あまりの銃気違いで、巡業中に道路標識を撃ったり、不適当なときに自分の銃を見せびらかしたりしていた。クリスマス・イブ・ショーの一つのバージョンでは、嫌がる女性ファンの前でエースが銃を抜き、それから、これから何をしようとしているかを自分で分かっていると彼女に伝え、自分の口の中に銃を入れ、引き金を引くのだが、薬室に弾丸があったことを忘れていたのだ。他のバージョンではロシアン・ルーレットをやるのだが、なぜそれをしたがるのかが全く説明されない。銃の口径も論争の的で、0.22インチという者と0.32インチという者がいる。何が起こったにせよ、一つだけはっきりしていることは、一瞬にしてジョニー・エースは死んだということだ。この事件によって、プレッジング・マイ・ラブPledging My Loveはチャートのトップに押し上げられ、黒人ティーネイジャーの女の子たちの中で変死の狂信的教団が作られ、極端な場合には彼を祀る聖堂をベッドルームに建てたものもいる。
こんな有様を見た人は今までいなかった。ドン・ロビーDon Robeyは、ショックから立ち直ると、何をすべきかを知ったが、それは、エースが録音したものをすべて、10インチLPアルバムに入れ、R&Bの最初のLPアルバムの一つである、ジョニー・エース・メモリアル・アルバムJohnny Ace Memorial Albumをリリースしたのだ。