サム・フィリップスSam Phillipsのところにはタレントが来た一方で、アーメット・アーテガンAhmet Ertegunとジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerはタレントにレコーディングさせるために旅をしなければならなかった。
レイ・チャールズRay Charlesでヒット曲を獲得しようと決めて、コジモ・マタサCosimo Matassaのスタディオで1953年8月に2曲レコーディングし(そのうちの一曲はギター・スリムによる)、12月にはニュー・オーリンズで、そして1954年11月にはアトランタのWGSTでレイのレコーディングをした。
途中、レイは金をもうけたが、それはレコードによるのではなかった。ニュー・ローリンズの初日以外は巡業バンドを売り物にし、メンバーを入れ替えたが、フォート・ワース出身の若いサックスフォン奏者、デイビッド・ファットヘッド・ニューマンDavid “Fathead” Newmanを最初の中核メンバーとして選んだ。
結果は素晴らしい曲だったが、それはアトランティックが12月にリリースした両面ヒットを制作した最後のセッションとなった。アイブ・ガッタ・ウーマン”I’ve Got a Woman”は、ゴスペルのアイブ・ガッタ・セイビャー”I’ve Got a Savior”を急いで書き直したもので、レイは全精力を注いだ。
B面のカム・バック・ベイビーは、ファルセットのホーという叫び声を強調し、息をのむようなブルース・ボーカルに基づいたゴスペルのピアノだった。
A面はすぐにR&Bチャートで1位になり、B面は4位になった。レイ・チャールズはついに聴衆を見い出したというように思えた。ホーという叫び声は、たぶん1953年にスペシャルティから、トゥ・クロース・トゥ・ヘブン“Too Close to Heaven”というゴスペルのスマッシュ・ヒットを出したAlex Bradford教授に影響を受けたのだろう。
この曲の中で、アレックスは2回ホーという叫び声を発している。この曲は、明らかに、南部を巡業し、RCAでレコーディングしていた若いブルース・シンガーから注目されていた。リチャード・ペニマンRichard Penniman―自称リトル・リチャードLittle Richard―は、精力的なステージ・ショーで知られていたが、彼のレコードは平凡なブルースだった。
RCAは彼との契約を打ち切ったが、ドン・ロビーDon Robeyは、彼はお客を惹きつける力があると分かっていて、ジョニー・オーティスJohnny Otisのバンドに応援してくれるようにしてもらったので、1953年、彼はデューク・ピーコックDuke Peacockのためのセッションでレコーディングした。ロビーはレコードのリリースさえしなかったが、ぺニマンはまだ終わらなかった。
オーティスも終わっていない。サン・フランシスコのフィルモア・ホール公演で、ジェイムセッタ・ホーキンスJamesetta Hawkinsという名前の、その瞬間にその場でオーディションを望む、厚かましくて色白の15歳の女の子と、対面した。オーティスは、その子にやってみさせ、それから、バンドがロサンゼルスに戻る時に彼女を連れて行く許可を、彼女の両親から取り付けた。彼らはその子にエタ・ジェイムスEtta Jamesという名前を与えた。
そして、ハンク・バラードのアニーAnnieのレコードへのアンサー・レコード、ロール・ウィズ・ミー・ヘンリーRoll with Me, Henryをまとめ上げ、モダーン・レコードModernに持ち込んだが、タイトルをザ・ウォールフラワーThe Wallflowerに変えるように求められた。
この曲は、R&Bチャートを急上昇し、突然エタ・ジェイムスはジョニー・オーティス・レビューの同行メンバーになった。