カールCarl Perkinsは外に出て車に戻り、車で走り去ろうとしたちょうどその時、青くて大きい高級車ビュイックがスタジオの前に乗り付け、サムと思しき男が下りてきた。
カールはサムを捕まえて、話を聞いてほしいと頼んだ。サムはいらいらしながらも、2~3分なら良いがそれ以上はダメだ、と言ってスタジオに案内した。何年か後に、サムはカールに、「もしダメと言ったらカールは終わりだっただろうが、カールの話を聞いて、的外れではないと思った。」と話した。
アーネスト・タブErnest Dale Tubb の物まねがうまいジェイJay Perkinsが登場して自分のオリジナル曲を始めたが、サムはやめさせた。
それからジェイがタブのナンバーを歌い始めると、サムは、アーネスト・タブはもう存在している、と教えた。カールは数年前に書いたムービー・マグ”Movie Magg”という曲(実は一番最初に書いた曲)をすぐに始め、サムは聞いた。
サムは最後までずっと聞いた。そしてその時、サムはカールに、飛び回らずに演奏できるか、と聞き、カールは、それまで緊張していたが、演奏した。サムは2回目の演奏はあまり魅力的でないと認めたが、曲は気に入った。「もう1曲作って来てくれたら、レコード契約の話をしよう。でも、今は、あのね、この男、エルビスで手一杯なんだ。」よし、やった、とカールは思った。
カールは曲を書ける。カールとサムは2週間後の約束をして、カールとバンドはジャクソンに戻り、その時まで待った。彼らがスタジオに戻って来た時、フルーク・ホランドW. S. “Fluke” Hollandはドラム・セットを持っていたので、サムは少しドキッとしたが、そのセットは彼らが運転してきた車に載せてあったので、セット・アップさせた。彼らはムービー・マグを、カールが完成させた全く新しいバージョンで録音し、それから新しい曲、ホンキー・トンク・ギャル”Honky Tonk Gal”を録音した。
サムは、B面にムービー・マグを選びたくなかったので、彼らは別のもっとカントリーっぽい、ターン・アラウンド”Turn Around” を演奏した。
しかし、カールはたくさん用意していたので、喜んですべてレコーディングした。メンフィスからミシシッピ川を北上してセントルイスで、何か反対のことが起こっていた。牧師の子供で、いうことを聞かないチャールズ・エドワード・チャック・ベリーCharles Edward “Chuck” Berryは、高校を出たばかりの時、凶器を使った強盗と自動車の盗みで刑に服し、1952年までに彼はトミー・スティーブンス・コンボTommy Stevens Comboで演奏していた。
このコンボは小さなバンドで、常連の黒人客相手に比較的しゃれたナイトクラブのハフス・ガーデンHuff’s Gardenのお客に、人気のある黒人のヒット曲を演奏していた。ある晩、おそらく飽きたためだろうが、ベリーはカントリーの曲を観客に向けて演奏し始め、それが激しくなった。スティーブンスは、ベリーをけしかけた。というのは、少しでも芸人魂があれば困ったとは思わないし、グループ全員が狂ったように演奏し、ベリーのカントリー曲とノベルティ・ソングはショーのハイライトになった。サイドラインの外側から見ていたのは、ベリーより2歳年上のブギー・ウギー・ピアニスト、ジョニー・ジョンソンで、コスモポリタンCosmopolitanというかなり下品なサー・ジョンズ・トリオSir John’s Trioというところで働いていた。
12月末、サー・ジョンズのサックスフォン奏者が病気になり、ニュー・イヤーズ・イブ・ショーを開催できないということで、ジョンソン(バンド名のサー・ジョンということだが)がベリーに、そのイブニングのエンターテインメントの一部として、カントリーの演奏をしたいかどうかを尋ねた。夜の終わりまでに、ベリーはバンドに加わり、このエンターテインメントの一部として常に加わることをクラブのオーナーは主張した。この編成は、1954年のある日、トミー・スティーブンスがベリーを呼んで、彼のバンドがクランク・クラブCrank Clubのハウス・バンドになり、仕事が増えて、ベリーがサー・ジョンでやっていたことの2倍をこなすと言われるまで続いた。
ベリーはすぐに、彼らと一緒に元に戻った。間もなくして、地元のあるレコード・オーナーが電話をかけてきて、「自分は、カリプソ・ジョーCalypso Joeのために作曲しているが、ジョーと一緒に作るレコードでギターを演奏しないか」と尋ねた。
ベリーは、レコーディングを経験したことで活気づき、コスモポリタンのオーナーがベリーに戻って来てほしいと頼んだ時、戻るにあたって三つの条件を出した。バンド・リーダーになること、契約を結ぶこと、バンドは積極的にレコード契約を追求すること。三つとも了承されたが、セント・ルイスにはリズム・アンド・ブルースのレーベルがあまりないので、誰が彼らのレコードを作ってくれるかは難しい問題だった。