10時ごろ、デューイDewey Phillipsは、サムSam phillipsが来週が発売するレコードがここにあり、地元のエルビス・プレスリーElvis Presleyが歌うとアナウンスした。
プレスリーの家に話を戻すと、母親のグラディスが、ラジオからエルビスの名前を聞いてあまりにショックを受けたので、レコードに注意を向けることができなかった。
心配はいらない。デューイはもう一度かけたのだ。そしてもう一度。そしてもう一度。11回ほど立て続けにかけた。プレスリーの家の電話が鳴った。それはデューイで、ラジオ局にかかってくる電話を鳴りやまさせるために、エルビスを探して、インタビューをしにラジオ局に連れてくるように言うものだった。映画館に行ってエルビスを座席から引っ張り出し、歩道に連れてきて、WHBQに着いた。
デューイは、暖かく彼を出迎え、これからインタビューをするので待っているように伝えた。エルビスは怖くて死にそうで、インタビューなんて何も分からない、と言ったところ、デューイは、ただ下品なことを言わなければいいんだ、と言った。デューイは話し続けた。フィリップスはスタンレー・ブースStanley Boothに語った。
「僕が高校はどこにいったのかと聞いたら、エルビスは、『ヒュームズ』と答えたので、その話は切り上げたくなった。なぜなら、たくさんのリスナーが、エルビスは黒人だと思っていたからだ。」彼らはおしゃべりを続け、最後にデューイがお礼を言うと、エルビスは、いつインタビューが始まるのか尋ねた。「もう終わった。マイクは点けっぱなしだった。」と言ったんだ。ここでデューイは電話対応をしなければならなかった。デューイが最初にレコードをかけてから鳴りやまなくなり、通じなくなったのだ。エルビスは、明らかにうわの空のようになり、ゆっくりと歩いて家に帰った。それでも、メンフィスのティーネージャ―という言葉は、公表された。奇妙な身なりの男?おかしな服を着て、髪の毛にこだわる?彼がレコードを作った。しかも、とんでもないレコードだ!
当時、ビルボードはR&Bと「ヒルビリー」のレコードの地域チャートを出していたが、それが魅力的だった理由は、個人にとっての地理上のエリアが、両ジャンルで独特の嗜好を持っていたからだ。
サン209はメンフィス・チャートでかなり早くから登場した。
それも当然で、サムはレコードプレス機の発注を、いつもの予備調査レベルの量から、5000-7000枚へとすぐに注文変更しなければならなかったからだ。つまり、それだけ良く売れたということだ。レコードの宣伝も大変だった。もしシンガーが白人なら、なぜアーサー・クルーダップArthur “Big Boy” Crudupを歌っていたのか、そして、もし黒人なら、よりにもよってビル・モンローBill Monroeをどうしようとするのか?
最初にうまくいった場所はテキサス州で、ダラスのビッグ・ステイト・ディストリビューションBig State Distributionにいたアルタ・ヘイズAlta Hayesという宣伝担当の女性が放送に成功し、それからダラスのチャートに登場した。勢いづいたサムはグランド・オル・オプリーGrand Ole Opryで見返りを求め、エルビスは9月に番組でレコードの曲を歌うチャンスをもらった。
伝説とは違って、オープリーのマネージャーであるジム・デニーJim Dennyは、エルビスにトラック・ドライバーの仕事を辞めるなとは言わす、実際には、目撃者によると、ジムは少しだけ感心したそうだ。
そして、エルビスがたまたまビル・モンローの楽屋に入った時、エルビスの最悪の恐怖が現れたり消えたりしたのだが、そこでモンローはエルビスに、ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキーをどんなに気に入っているかを話し、ビルはこの曲をワルツから4分の4拍子にアレンジし直して翌週録音し直した。エルビスは、スコッティ―・ムーアにチェット・アトキンスChet Atkins(エルビスのあこがれの人)を紹介してもらい、後に、ポスト・オープリーの賞であるミッドナイト・ジャンボリーThe Midnight Jamboreeがアーネスト・タブ・レコード店で開催されたとき、エルビスはタブと会話し勇気づけられた。
オープリーとルイジアナ・ヘイライドLouisiana Hayride(二番目に重要なライブのカントリー・ミュージック・ラジオ・ショー)に登場した後しばらくして、エルビスはスタジオに戻り、次のシングル、グッド・ロッキン・トゥナイト” Good Rockin’ Tonight”を録音した。