チェス・レーベルChess Recordsは、ボーカル・グループ以外のブルース・アーティストの発掘にもっと関心があったが、ステイプル・シンガースThe Staple Singersの人気は否定できず、また、アラン・フリードAlan FreedのそばにいるためにクリーブランドClevelandに移ったシカゴのグループ、ムーングロウズMoonglowsを獲得したのは良い戦略だった。
なぜなら、”Sincerely”は、1954年後半ヒットし、グループとフリードとの関係はレーベルとフリードの関係に悪影響を及ぼさなかったからだ。
そこから西になるが、生まれたばかりのドゥートンDootoneレーベル(レッド・フォックスRedd Foxxのグループによるコメディ・レコードが他の収入源だったドゥーツィー・ウィリアムスDootsie Williamsがオーナー)は、ペンギンズPenguinsのアース・エンジェル”Earth Angel”を発売し、この曲は今までにないほどうまくハーモニーを分厚くしたが、それにもかかわらず全国ヒットとなった。
オーディションに出場したたくさんのボーカル・グループが歌ったような古典的なものも2曲54年に登場してきた。ハープトーンズHarptonesの発表した、ア・サンデー・カインド・オブ・ラブ”A Sunday kind of Love”は、ルイ・プリマLouis Primaが共同で書き、少なくともニューヨークのローカルでは流行った、のんびりとしたポップヒットで、リード・シンガーのウィリー・ウィンフィールドWillie Winfieldが引き立った。
一方、キャデラックスCadillascsもニューヨーク出身で、チャールス・ブラウンCharls Brownとミルス・ブラザースMills Brothersもレコーディングしたグローリア”Gloria”で、ボーカルグループの最高峰に上り詰め、リード・シンガーのアール・スピーディー(又は、私たちが目にするのはスピード)・キャロルEarl “Speedy”(Speedo) Carroll は、曲のタイトルの女の子を褒めたたえてファルセットの仲間入りした。
キャデラックスもチャートには入らなかったが、殿堂入りした。そしてドリフターズDriftersは1954年をホワイト・クリスマス”White Christmas”バージョンで締めくくったが、ドミノーズのアレンジは、クライド・マクファターClyde McPhatter以前の経営者たちに負うところが少なからずある。
ただし、クライドがこの曲に自分独自のドラマを演じるためにバスリードの後を引き継いだことは別で、このことがアービング・バーリンIrving Berlinの弁護士からの不平に発展する。バーリンは不平を言うべきではなかった。
というのは、ドミノーズは、しっかりした根拠があって、この曲を再アレンジしたのであるだけでなく、思いがけず次の2回のクリスマスにわたってチャートにいて、バーリンにお金を稼いでくれたのだ。
すべての人の中のうち、ティーネイジャー向けで最も成功した人の一人が、ビッグ・ジョー・ターナーBig Joe Turnerだった。
彼は、1953年をブギ・ウギの昔ながらの曲、”Honey Hush”で締めくくり、1954年を”TV Mama”で始めた。
この曲はスライド・ギターで自分のやりたいようにやるエルモア・ジェームスElmore Jamesを描いたもので、ターナーが有名になったカンサス・シティ・スタイルのジャンプ・ブルースとは全く異なるものだった。
しかしこれらのレコードは、年間のほとんど(32週間)チャートにいた”Shake, Rattle and Roll”の影に隠れてしまった。
この曲もわいせつ危機の一部で、ガールフレンドの「太陽が透過するドレス」をほめたり、自分をシーフードのお店を覗き見る片目の猫になぞらえている。この曲も、狂ったように体を揺らし、最初のロックンロールの古典のようにしたのだ。ターナーのバージョンがポップ・チャートに載ることは決してなかったが、白人のティーネイジャーたちは、この曲について知っていたと信じた方が良い。同様だったのが、ペンシルベニアでウェスタン・スイングの29歳のバンド・リーダーで、地域レーベルで、”Rock This Joint”などのタイトルの人気レコードをレコーディングし、”Rocket 88”のカバーをしていた。