しかし45回転盤はシングル曲には理想的で、最新のマスタリング技術を使って、ジュークボックスの原始的サウンド・システムでも、音質が飛躍的に良くなり、そして、もしちゃんとやれば、両面に2曲納めることが可能なので、そうすれば、延長演奏レコード、即ちEPを作ることになる。
この型式はすぐさま、軽い物、改良された音質、コスト低減を重視するポップ・ミュージック業界から指示され、45回転シングル盤とEP盤は、大きくて不格好な仲間のレコードたちに追加された。EP盤は12インチのアルバムをいっぱいにできないアーティストにとって理想的でもあった。カントリーやR&Bのアーティストは、特にEPの型式で人気があり、また、45回転に転向したジュークボックスのオペレーターは、選んだレコードに対する料金を増やせるので喜んだ。
この時代の有名なEPの一つがミッドナイターズの”Annie”全三部作―”Work with Me, Annie”、”Sexy Ways”、”Annie Had a Baby”と、彼らの最初のヒット曲”Moonrise”―は、すべてフェデラルFederalレーベルのEPに収録されている。
33回転と45回転のもう一つの共通点は、ポリ塩化ビニル製で、とても長持ちし、落としても割れにくいことだ。(78回転は米国以外ではとても長く存続し、インドのOdeonは1966年にビートルズBeatlesの”Paperback Writer”と”Rain”を発売した。)
R&Bへの関心が高まる中で、アラン・フリードは、最も恩恵を受けた(彼が”Annie”のレコードをかけたかどうかを知ることは興味深い)し、クリーブランドで売り切れの観客に”Moondog Ball”を上演していた。
彼は、オハイオ州の他の都市にも広げ、酔っ払ったポップ・ジャズを演奏する、2,3人の立役者とそのバックを務めるオーケストラを提供した。その後彼は成長し、町の外に移動し始めた。1954年5月、彼はニューアーク・アーモリーで、2ドルというとてつもなく高い値段のチケットのショーを開催したが、約1万人の有料入場者を呼び込み、遅く来たために売り切れのショーに入場できなかった数千人ががっかりした。
ビルボード誌によると、観客は概ね15歳から20歳で、20%が白人だと伝えた。彼の次のショーはブルックリンのエベッツ・フィールドで、クローバーズClovers、ドミノーズDominoes、オリオールズOrioles、ファッツ・ドミノFats Domino、マディ・ウォーターズMuddy Waters、リトル・ウォルターLittle Walter、カウントベイシーズ・オーケストラCount Basie’s Orchestra、バディ・ジョンソンズ・オーケストラBuddy Johnson’s Orchestraが出演した。
フリードがニューヨークで、長い時間を費やしていたであろう理由は、ニューヨークに彼のショーを移動させる交渉を詰めていたからであり、シンジケーテッド・ショーを維持した上で、1010AMのWINSと75,000ドルという天文学的金額の契約を締結したことを、7月に発表した。
彼はオハイオに戻り、”Moondog Ball”をアクロンで上演して、それをWJWでライブ放送し、荷物をまとめるために家に帰った。
フリードが唯一しなければならない大きな変更点は、”Moondog”という名前を外すことだ。なぜなら、本名をルイ・ハーディンLouis Hardinと言う盲目で顎髭を生やした大男の所有になっていたからで、その男はバイキングの正装に身を包んで6番街をぶらつき、自分で作ったパーカッションの曲を、お金を払ってくれた人には誰にでも演奏していた。
ボーカル・グループはいたるところで出現していた。アトランティックには、クローバーズClovers(彼らの“Your Cash Ain’t Nothin’ but Trash” は、その年のヒットだった。)、ドリフターズDrifters(彼らは、わいせつの危機に対し、”Such a Night”によって貢献した。)、そして、新たに設立されたCatレーベルで、無意味音節がたっぷり入り、上手にハーモナイズした”Sh-Boom”のコーズChordsがいた。
中西部で、キングのフェデラル・レーベルは、ミッドナイターズだけでなく、チャームズCharms、カリスマ的なオーティス・ウィリアムスOtis Williamsが前面に出て、チャート入りした”Heart of Stone”を出したシンシナティのグループが所属していた。
そして、アトランティックがやろうとしていたことのセンスがあまりなさそうな、プラターズPlattersというロサンゼルス出身のグループと契約した。
シカゴでは、ビージェイVee-Jayという新レーベルが、ブルース・アーティストについてチェスChessとは競争しない(ビージェイのオフィスはしばらくの間と売りの真向かいに有った)という賢い決定をし、スパニエルスSpanielsという地元のグループと慎重に始めた。
スパニエルスの”Goodnite, Sweetheart, Goodnite”は、完全にスローなラスト・ダンスの曲で、グループとレーベルを有名にした。
地元のグループ、フラミンゴスFlamingosと契約し、後に名曲を出すが、1954年にはまだ無かった。
シカゴはゴスペル・ミュージックの中心だということを踏まえ、二組の歌手グループとも契約したが、もっとも有名なのはロウバク・ポップス・ステイプルスRoebuck “Pops” Staplesが結成したファミリー・グループのステイプル・シンガースStaple Singersだった。
ロウバクは、無名時代、チャーリー・パットンCharley Pattonを追いかける若きブルース・ミュージシャンの一人で、ステイプル・シンガースのバックでただ一人演奏して、深いエコーがかかり、奇妙なゆっくりした声のオスティナートを特徴としていたが、ファミリー・グループの希望の歌に不吉な感じの演奏だった。